ベトナム関連書籍 紹介メモ (担当:向井 啓二)
第一回  ベトナム戦争に関する書籍に寄せて  (2008年)

ここ数ヵ月に出会った書籍たち

 ここ数ヵ月といっても、主にこの2ヵ月程の間に、ベトナム戦争関係の書籍に出会った。それらをできる限り購入し、読んでみた。それぞれ様々な感想がある。すでにその一端については、前回のレポートの冒頭に記したが、前回の内容と重複するかも知れないが、今回は、ベトナム戦争関係の書籍紹介を兼ねて記すことにする。

 ところで、何故今、ベトナム戦争に関係する書籍が書店に並ぶようになったのか。これも、すでに記したことだが、1975年4月30日のベトナム解放から33年経過する中で、これまで以上に、この戦争を客観的に捉えることが可能となった結果だと考える。私は、戦争については、どう考えても好きになれないし、反対の立場をとるのであるが、実際に起こった戦争は、そう簡単に済ませることができない。過去の事実を消し去ることなどできないことである。といって、戦争に加わったそれぞれの勢力・グループの一方だけから判断することは危険であろう。その典型が、例の航空幕僚長の罷免に繋がる論文発表になるのだと考える。一体、どのような歴史認識で、あのような論文が書けるのか、全く彼の認識を疑うし、それが許されていた自衛隊内の教育とはどんなものであったのか、想像するだけでも恐ろしいと言わざるを得ない。ともかく彼は、「戦う自衛隊=軍隊の構築」、これが理想であったのというべきだろう。しかも、幕僚長やその他制服組のトップないし、それに近い幹部は、戦争になっても、実際の戦場に行く必要がなく、いわば「高みの見物」をしていられる人たちである。戦闘は、兵士が担い、幹部は戦場から遥か彼方の後方で戦況を知れば良いだけである。このような幹部を持つ兵士たちは不幸としか表現できない。一体、防衛省ないし、その幹部養成の教育機関では、どのような教育が行われているのか、疑問視せざるを得ない。

 日本の敗戦から60年以上も経過した時代ですら、このような感覚の持ち主が公然と論文を発表するのだから、その半分しか経ていないベトナム戦争を客観的に捉えることは難しい。それでも、私たちがこれまで知り得なかったことを、語ってくれている書籍を読むことから、少しずつ理解が可能となると考える。ここであげる書籍は、あくまで、私が書店で出会い、購入できたものに限られるが、この機会にできれば、お読みいただければ、と思う。


出会い購入した書籍の紹介

 それでは、私が、この間書店で出会い購入し、読むことができた書籍を紹介することにしたい。但し、購入順でもなく、手元にあるものからランダムに紹介する。


1)三野正洋『わかりやすいベトナム戦争』(光人社NF文庫、2008年)


 軍事関係に少し詳しい方なら、お解かりだと思うが、光人社という出版社は、いわゆる軍事物を多数出版している会社である。だから、一瞬、私も購入するのをためらったのである。つまり、戦記物大好きの人たち向けの「軍事オタク」の本で、正直、「胡散臭い」気がしたのだが、本書は決してそういう代物ではない。著者の立場は、南ベトナム=悪、北ベトナム=善という立場を回避し、数字に裏付けられたデータを挙げながら、事実を丁寧に扱うものであって、歴史を学ぶ私にとっても充分参考になった。しかも、日本ではよくありがちの記述、南ベトナム解放民族戦線を「ベトコン――ベトナム・コミュニスト=Vietnam Communist――」とは表記せず、NLF(South Vietnam National Liberation Frontの略記)として記している。たとえその内実が当時のベトナム労働党(共産党)の指導下にあったとしても、安易な記述に流されることなく、戦争の動向を描いている点で評価できると考える。記述は、フランスとの戦いから記され、アメリカが介入したベトナム戦争に章を改めて記述されている。

 アメリカ軍による枯葉剤散布についても要約して記されており(同書、238~241頁)、これまで少しは知られているものの、これもあまり明らかにされていない事柄、例えば、ベトナム戦争は、アメリカと南北ベトナムの戦争であっただけではないことも明らかにされている。すなわち、南ベトナム政府軍には、アメリカ軍以外に、韓国軍・オーストラリア軍・ニュージーランド軍・タイ国軍・フィリピン軍が加担しており、北ベトナム人民軍には、南ベトナム解放民族戦線以外に、中国人民解放軍・ソ連軍・北朝鮮人民軍が参加していたこと(同書、167~182頁)も記されている。

 さらに、北爆についての記述(同書、243~268頁)もあり、ベトナム戦争終了後のカンボジア侵攻・中越紛争についての記述(同書、293~305頁)もなされている。同書には、必要に応じて著者が知り得た各種の資料からデータを表として表しており、利用することが可能である。巻末には参考文献も表記されていて、ベトナム戦争を知る際には助けになるであろう。近年、ベトナムでもベトナム戦争全体を捉え直す作業がなされているようで、私が知り得、ベトナムで購入できた文献で読了していないが、Nguyen Huy Toanの「Vietnam The War of Liberation」(The Gioi Publishers Hanoi 2006)があることを付け加えておく。

2)平敷安常『キャパになれなかったカメラマン(上)(下)』(講談社、2008年)

 
 アメリカABC放送のTVカメラマンとして戦場で体験したことを丁寧に回顧し、記した書籍である。当然のこととはいえ、写真も豊富に掲載されており、写真が持つ無言の意味を改めて感じさせる。日本人の先輩・同僚――岡村昭彦や石川文洋ら――との関係や思い出も記されていて、当時ベトナムで取材した人たちの生の姿が理解できる。主に南ベトナム側から見たベトナム戦争、そしてアメリカの報道関係者についての記述になっているのは、著者がアメリカのTVカメラマンであったことから、当然のことであるが、その記述は体験に基づき、生々しい現実が理解できる。報道カメラマン(TVカメラマンを含む)はもちろんいずれか一方の軍事組織に加わる兵士ではないが、戦場で取材するのだから、生命の危険はつきものであった。事実、日本人カメラマンも多数死亡しており、沢田教一や一ノ瀬泰造をはじめとする死者についても触れられている。

 また、以前取り上げた「ソンミ村虐殺事件」についても記されている(同書上巻、432~437頁)が、あわせて、北ベトナム正規軍がテト攻勢(1968年)の際、フエの住民が南ベトナム政府に協力したという理由で大量処刑した「ユエの虐殺」にも触れている(同書、437~438頁)。

 下巻には、カンボジアでの取材(ポルポト政権下の取材)や、サイゴン陥落の様子が記されていて興味深い。それぞれの瞬間に著者は立ち会っていたのである。よく生命を保てたと考えるが、著者は死んだ同僚に対し、すまない想いを抱きながら、その追悼のために全力を振るってこの上下2巻の本を記したのであろう。先の三野氏の本とは異なり、その現場にいた一人として、見聞したことを忠実に描いた作品であると考える。

3)ダン・トゥイー・チャム『トゥイーの日記』(経済界、2008年)


 日本語版は、上記したとおりの訳で出版されている。私はベトナム語は読めないが、現地でベトナム語版を購入できた。それは、「1#Vietnam bestseller」と記されたもので、原題は「NHAT KY DANG THUY TRAM」(日記 ダン・トゥイー・チャム)で、2005年にNHA XUAT VAB HOI NHA VANから発行されたものである。日本語版よりも多くの写真が掲載されている。但し、いささかピンボケの写真が多いのが残念である。

 ところで、現地で購入した時、ベトナム語ができる日本人の方から指摘されたのは、本のタイトルが、何故、チャムの日記ではなく、トゥイーの日記なのだろうか、ということであった。つまり、トゥイーはミドルネームで、チャムが名前に当たるから何となくしっくりこないという指摘である。その謎は、1968年4月12日の記述、日本版では訳注に記されている。つまり、日記の筆者自身が、自らの呼び方として、「トゥイー」と記しているからである。ベトナム語版でも同日の記載は「Thuy」と記されている。

 本書をお読みいただければ、すぐに理解できることであるが、ダン・トゥイー・チャムはハノイ生まれの若き女医で、ベトナム戦争に志願した。彼女は1970年6月22日、120人もの米兵を相手に1人戦い、死亡した。日記は、1968年から70年6月20日までのもので、直筆の日記は数奇な運命を辿り、奇跡的に彼女の家族に返還された。この間の事情は、それだけで一つの物語になっているから、直接本書を手にして読んでいただくのが良いと思う。まさに「事実は小説より奇なり」である。

 本書を読んで、まず、戦争中であっても、戦闘のないある種「平和な期間」、人間は様々なことを望み、考えるのだということを改めて感じた。友だちのこと、懐かしい家族のこと、恋人のことなど。当たり前のことであるが、戦時とはいえ、戦闘は毎日同じ場所で行われているわけではない。戦闘と戦闘の間の束の間の「平和な期間」に彼女は実に人間らしい、若い女性らしい感性で様々なことを思い巡らし、焼け付くような恋も語ってくれている。その記述は、実に新鮮で読む人を優しい気持ちにさせてくれる。だから、若い女性の成長記録として読むことも可能である。

 第2に、彼女が望んだことは、当時の北ベトナムの状況下では当然のことであろうが、ベトナム労働党(現共産党)の党員になることであった。しかし、どういう理由か、彼女はなかなか党員になることが認められなかった。最終的には1968年9月27日、党員になった。日本語版でも「共産党に入党」と訳されており、ベトナム語版では「Ket nap Dang」、つまり「吸収・党」すなわち、入党と記され、同じ日の記述には、「nguoi cong san」共産主義者(日本語訳では「共産党員」)と記されている。このことから、当時ベトナム労働党名乗っていたが、ベトナムの人たちにとっては、共産党と理解されていたことがわかる。

 彼女は、この党に「プチブル=プチブルジョア」だという理由でなかなか入党が許されないと思っていたようで、本書のいくつかの箇所でそのことを記している。このような理解が本当に正しいか否かは分からないが、「プチブル」出身という考えがベトナムの党やそれを取り巻く人々の間にあったことが理解でき、当時の左翼の偏狭さを感じた。しかしながら、本書の主題は、おそらく先に述べたように、20代後半の女性の日々の生活や悩みであり、激しい戦闘の中にあっても、人間らしさを失わず、生活していた1人の女性の姿が描かれていて共感できる。

4)バオ・ニン「戦争の悲しみ」(『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集Ⅰ-06』所収、河出書房新社)
 
 本書は、先の3つの著書とは異なり、戦争を扱った小説である。日本でも例えば、戦争を扱った作品を記した大岡昇平のようなすぐれた文学者がいるが、バオ・ニンはそうした小説家の1人であろう。戦争に翻弄される北ベトナムの若い恋人たちのことを取り上げている。戦いは「集塊の森」での激しい戦闘を中心に繰り広げられ、北ベトナム側は、ここで多数の死者を出した。生き残ったのはキエンをはじめごく限られた人たちだけというものであった。戦闘ばかりが取り上げられているわけではない。話は、現在のキエンから過去に、それも北ベトナム正規兵として従軍する時点にまで遡っていく。主人公キエンは、かろうじてベトナム戦争終了後まで生きのびるが、大勢の友人が亡くなり、自分1人が生きていることに潰されそうになりながらも、生きていかねばならないのである。まさに、訳者井川一久が記すとおり「存在の悲しみ」を抱え込みながらも生きていかねばならない自分を作品に仕上げたと考える。

 もう1つの戦闘シーンの描写。1975年4月30日、南ベトナム大統領官邸に戦車が突入し、戦争は終了してもなお、タンソニアット空港内では依然として銃撃戦が続けられていたのである。戦争終結後もなお血生臭い戦いは続けられた。

 この作品も戦闘の中での日常が語られている。「束の間の平和」の中で人々は、兵士たちはどのような思いで暮らしていたのかが理解できる。戦争のない平和の世の中で起きることと同じことが主人公の周りでも起きていた。但し、戦時下であるがゆえに、感傷に浸る余裕もなく、時は過ぎ去り、戦争が終了した時、「束の間の平和」で起きた諸々の大事件や小事件に絡めとられる。取り返しのつかない過去と正面切って立ち向かわざるを得ない。生きて行くこと、行き続けることの辛さを抱え込みながらも。

 我々は、ベトナム戦争当時、主に南側の報道を中心に理解していたが、南・北を問わず、戦争は人々を包んでいたことが了解できる作品である。

 
5)坂田雅子『花はどこへいった』(トランスビュー、2008年)


 この本は、ベトナム戦争に兵士として加わり、退役後、写真家集団マグナムのメンバーとなった坂田さんの夫であるアメリカ人グレッグへの想い――彼は枯葉剤散布に携わったことから、枯葉剤が原因する病で亡くなった――とベトナムの枯葉剤被害者に関する記述を中心に記されている。坂田さんは、本と同じタイトルの映画を撮影し、すでに各地で上映されていることでも知られている。

 本書の前半は、グレッグと坂田さんとの出会い、退役後のグレッグが、写真家として認められていった様子が記されると共に、写真家として認められはじめたグレッグが発表した記事が掲載されている。後半は、ベトナムの枯葉剤被害者を訪問し、坂田さんが映画を撮影することになったことや、撮影にあたっての取材メモにあたる枯葉剤被害者の様子が記されている。つまり、この本は、夫グッレグへの「レクエイム=鎮魂歌」としての意味と、ベトナムの枯葉剤被害の実情を理解する入門書としての役割を持つ本と言えよう。

 但し、枯葉剤被害に関しては、あくまでも入門書としての域を出ないと私には思われる。同じ枯葉剤被害を扱った本でも、中村梧郎氏の『母は枯葉剤を浴びた』や、北村元『アメリカの化学戦争犯罪』、あるいは、レオ・カオダイの著書を翻訳した尾崎望の『ベトナム戦争におけるエージェントオレンジ』といった著作の方が客観的なデータやこの問題の切り込み方が鋭く、読む人に枯葉剤被害の問題をよりリアルに示してくれると考える。


  

番外編 石川文洋『四国八十八ヵ所』(岩波新書1151、2008年)


 石川文洋といえば、ベトナム戦争の報道写真家として知られ、ベトナム、ホーチミン市の戦争証跡博物館に澤田教一・中村梧郎らと共に写真が展示されている人物であり、岩波新書でも『ベトナム 戦争と平和』を刊行している。何故この四国遍路の旅が、ベトナム関係書籍の番外編かといえば、石川氏が歩いたお遍路の旅の記録・写真と共に本書中に自分が出会い関係を持った亡き写真家たちのことを短い記述ではあるが記しているからである。取り上げられているのは15人の日本人写真家であり、ベトナム戦争あるいはカンボジア紛争の取材中に命を落とした人々について記してある。これも石川氏なりのレクエイムであり、それを石川氏はお遍路という形で実現させたのであろう。石川氏の友人であろう平敷氏も先述した著書のテーマにしていると思うが、バオ・ニンの作品にも通じる「生き残った人間としての責任」や「存在の悲しみ」を感じさせる。

これ以外のベトナム関係書籍で是非と思われるもの

 ベトナムはベトナム戦争だけで判断される国ではもちろんない。私が読んだ本以外にも現在のベトナムの一面を描いた観光書や、その他たくさんの本が出版されていて、そのどれを取っても教えられることは多い。

 そうした中で、ある種異例とも思われる書籍が、今井昭夫監・訳『ベトナムの歴史』(明石書店)である。現在のベトナムの中学生が使用している歴史教科書を全文訳したもので、税抜きで5800円と値段も高い。しかし、ベトナムの人々が自国の歴史をどのように学んでいるかを知ることができるし、ベトナムの通史を理解する上では欠かせない書籍だと考える。値段が高い分、読み応えもあるし、ベトナムを知ろうとする人には良い書籍だと考える。

 第二回  予断と偏見と  (2009年)



まえがき~コーナーを作るにあたっての前口上~

前回のものを勝手にメモ・1とすれば、今回はその2である。2000年以来、通い続けているベトナムのことを理解しようと、それなりに研究書(専門書)や、ガイドブック、絵本などを可能な限り購入し、読んでいる。古本屋で買い求めた古いものや新刊もあるし、ジャンルも様々である。京都府連のホームページ作成担当者の「いつもたくさんベトナム関係の本を読んでいるなら、本の紹介を兼ねたコーナーにするから、どうだ?」という「挑発?!」を受けて、ではやってみようと思いついた次第である。不定期で、しかも予断と偏見に満ちた感想を書くかも知れないが、それは予め許していただくことにして、古本・新刊を問わず、私の読書ノートとして記録したい。

もし、私が書いたことをきっかけに、本屋で買い求めることに繋がれば幸いである。何しろ、ベトナム関係の本は、全体の発行部数も限定されており、気がついた時、必要だと思った時には「忽然と」本屋から消えていることが多い。そういう理由からも、ホームページ作成担当者からの「挑発」・「挑戦」を受けてみることにした。

①坪井善明『ヴェトナム新時代』(岩波新書新赤版 1145、2008年)


 まずは、ここから。同書については、すでに『日本とベトナム』紙で、藤本文朗氏が簡単な書評を寄せているが、それとは違うことを述べることにする。

 藤本氏が述べていた事柄以上に、私が注目したいのは、現在のベトナムの実情を切り取り、説明している点である。特に、第5章にある「粗野なルール」(132頁)の指摘は、ベトナムの社会福祉を捉えようとしている筆者には、響く指摘である。古田元夫氏の「貧しさを分かちあう社会主義」の指摘(この指摘も素晴らしいと思っている)を受けて、現在は、どうかと述べている箇所である。すなわち、

  「貧しさを分かち合う社会主義」から一気に、「豊さを競い合う資本主義」に制度が変

  更になったのである。この急激な変化は多くの影響を社会に与えることになった。さらに、社会主義時代のさまざまな生活保障が廃止された一方で、資本主義社会で発達した社会保障制度は、国家の財政不足のためにまったく導入されないでいる。すなわち、非常に粗野な資本主義が突如ルールとして人々に課せられたことを意味する。

 まさに、坪井氏の指摘どおりの実態が起きていると筆者は考える。では、どうすべきか

まで、坪井氏は記しているが、その点については、納得することも多いが一応保留にして

おく。その国の政治・経済については、最終的にはその国の国民(民衆)が、決定するこ

とであり、私たちとしては、意見を持ち、発言することはできるが、それ以上のことはでき難いという理由で。但し、坪井氏をはじめとする人々が指摘していることを批判してのことではない。頷けることも多いことを付け加えておく。

②中野亜里『ベトナムの人権』(福村出版、2009年)


 この4月に出されたばかりの本である。ベトナムで起きている人権抑圧について詳しく取り上げた本である。事実は事実として、きちんと知ることが必要であり、「社会主義だからそんなことはあり得ない」という「社会主義神話」論には筆者も立っていない。かなり手厳しい内容が次々に記されている。宗教者に対する弾圧についても詳しい。

 最終的には中野氏は、「むろん、どのような政治体制を選択するかはベトナム人自身が決めることである」(430頁)と記し、斬新的な「民主化」を考えておられるようで、先記した坪井氏の指摘とかなり近いものだと理解できる。この点で1つだけ、この点についてどう理解したら良いのか、ということを述べておきたい。

 かなり古い新聞記事であるが、2005年9月26日付け『京都新聞』朝刊に、以下のような記事が掲載されている。「ベトナム共産党 複数政党制検討 日本に調査団派遣」と題する記事である。それによれば、「複数政党制については、党組織委員会が主催する『第10科学プロジェクト(KX10)』として研究に着手」とあり、日本だけでなく、中国・スウェーデンにも調査団が派遣されている事実が記されているのだが。この結果がどうなったのか筆者はつかんでいない。

③加茂徳治『クァンガイ陸軍士官学校』(暁印書館、2008年)


 筆者は面識が全くないが、元日本ベトナム友好協会常任理事である加茂氏の経験談。アジア太平洋戦争終了後も、ベトナムに残り、ベトミン軍、その後のベトナム人民軍創設に尽力した経験が記されている。フランスとの戦いに元日本兵が協力していたことは、近年ようやく知られることとなったが、その体験を淡々と記している。ホー・チ・ミンやボー・グェン・ザップとも会ったことがあるという歴史の「生き証人」の語りは、意味を持つ。



④田中義隆『ベトナムの教育改革』(明石書店、2008年)

 
筆者は、かつて「ベトナム教育史素描(Ⅰ)・(Ⅱ)」という論文を発表したことがあるが、現在、ベトナムの教育がどのようになっているかを理解したくて読んだ。著者は、ベトナムで教育開発を行った人であり、ベトナムの小学校で行われている授業の実態を明らかにしている。しかも、教育史や教育学の知識もかなりある。ベトナムで行われている授業は依然として知識伝達型の授業であり、教員の専門的知識も弱く、そこに競争原理が導入され、教員同士の連携もしにくくなっていることを明らかにしている。場所が異なるが、わずかな期間、ベトナムで授業をした経験から納得することも多い。すべてが欧米型の授業方法が良いというわけではないが、筆者は、ベトナムの教育は、発展途上国特有、共通の問題を抱えていると考えている。つまり、アメリカのジェームス・ミッジリィが『国際福祉論』で指摘しているように、ベトナムは、「第三次教育(大学教育のこと―引者注)に不均衡な重点を置いて」(同書166頁)おり、基礎教育である小学校・中学校教育を残念ながら重視していないのではないかと危惧している。
 第三回   

今回は、筆者に関係する人たちの本の紹介をしたい。まさに「手前味噌」になる危険が高いが、府連のホームページで、会員の本の紹介として紹介されている本も含め、自己紹介代わりに記すことにしたい。



①藤本文朗編『ベトちゃんドクちゃんだけでなく』(文理閣、1997年)

 はじめに断っておくが、この本を一般の本屋で入手することは、おそらく難しい。必要な方は、古書店で検索してもらえれば、と思う。

「ベトちゃんドクちゃんの発達を願う会」の11年の歩みを記した本である。ここで記された施設や学校も大きな変貌を遂げている。その分だけ歴史があり、発展を遂げているともいえよう。筆者はホーチミン市内にあるダ・ツェン障害児学校の変化しか、理解していないが、2000年以後でもかなり大きく変化をしていることがわかる。古い内容だから、もう使えないのではなく、元々どのような形で施設なり学校なりが作られ、どのように変化したのかを知る上で――まさに、施設史や学校史を知る上で、あるいは、障害児教育史や社会福祉史を知る上で――古典的な意味を持つ本である。


②黒田学・向井啓二・津止正敏・藤本文朗編『胎動するベトナムの教育と福祉』(文理閣、2003年)

 筆者も編集者の1人に加えられた本であり、思いも強い。先の『ベトちゃんドクちゃんだけでなく』を受け、2000年以降の内容を記した本である。障害者の自助組織や、ベトナムの家族、知的障害者の調査報告など、チームとしての研究分野の広がりと深まりが感じられる。現在では、いささか古いデータになっているかも知れないが、ベトナムの障害児教育や福祉についておおよそのことを理解するためには、やはり意味があると考える本。

③黒田学『ベトナムの障害者と発達保障』(文理閣、2006年)

 前記2冊の本を受け、単著を上梓した黒田氏の本。思えば、かつて筆者と同じ職場で初めてベトナム行きを告げられ、そのことを我がことのように喜んだ自分が、今はこうなっていようとはその時想像もしていなかった。何を言いたいのかというと、それ程古くから黒田氏は、ベトナムでの調査を行っており、その集大成ともいえる本である、ということ。

 なかでも、ベトナムの宗教系社会福祉施設の意味を指摘した箇所(同書183頁)は、何度引用させていただいたことだろう。宗教系社会福祉施設の地域性、先駆性の指摘を受け、筆者の仏教系社会福祉施設調査も自分の中でストンと腑に落ちた調査ができるようになった。感謝。

④尾崎望監訳『ベトナム戦争におけるエージェントオレンジ』(文理閣、2004年)

 この本は、レ・カオ・ダイの本を翻訳したものである。レ・カオ・ダイといえば、つい最近、『ホーチミンルート従軍記』が翻訳された。この本については、別の機会で紹介する予定であるが、枯葉剤散布によるダイオキシン被害の実情をわかりやすく説明している。私は、この本からエージェントオレンジとは、「薬剤を容れた200リットルの容器の周囲に描かれた20センチ幅のオレンジ、紫、ピンクなどのストラップにちなんでつけられた軍事上のコードに過ぎない」(同書20頁)をはじめて知った。まさに「細部に歴史がある――微視の史学(服部之総)――」という言葉を思い出した翻訳書である。

⑤尾崎望・藤田大輔・大城春美・塩見明子編『ベトナムの障害者にリハビリテーションを』(文理閣、2006年)

 上記④を受けて、尾崎氏らはCBR(地域に依拠したリハビリテーション)を実践する。その記録である。尾崎氏は本府連の副会長でもある。「日本のレ・カオ・ダイ」と評価するとご本人が恐縮され、否定されると思うが、毎年医療チームをタイニン省まで送るのは大変なことであろう。障害児者だけでなく、ベトナムの医療や公衆衛生などについても理解ができる本である。

⑥藤本文朗・藤井克美・黒田学・向井啓二編『手づくりの国際理解教育』(クリエイツかもがわ、2008年)

 『日本とベトナム』紙上で、古田元夫氏が丁寧な紹介をしてくださったことにまず、感謝申し上げる。日本ベトナム友好障害児教育・福祉セミナーは、2009年で第18回を迎える。近年、国際理解教育(本来は「国際教育」という―参照、深山正光『国際教育の研究』、桐書房)が各地で、あるいは小・中・高校で取り上げられている。筆者たちのセミナーもそうした範疇から捉えられるのではないか、ということから改めて理論面を含め考え直そうと、出版した本である。

 また、ベトナムに関係する人々の中でもこれほど長期間に亘り、毎年学生たちと共に交流を続けている団体もおそらく少ないと自負している。この本から是非、ベトナムの若者たちと日本の若者たちとの新たな交流が芽生えればと考えている。


 これら一連の本は、筆者を含めた京都府連関係者の本であるが、宣伝の意味を込めて是非購入されたい。決して損はさせないはず(笑)。
     
 第四回 ベトナムの教育に関する本



 今回は、ベトナムの教育に関する本を紹介したい。すでに、このコーナーで田中義隆氏の『ベトナムの教育改革』については紹介したが、これ以外にもいくつかの本が出版されている。

①近田政博『近代ベトナム高等教育の政策史』(多賀出版、2005年)

 思えば、この著書を手がかりに、筆者もベトナム教育史などを書いてみようと思ったのである。近田氏とは一度ベトナムでお会いしたことがあるが、当時、この本を、というより、博士論文を書くためにハノイで勉強されていた時だったのだろう。

 内容は、ともかく詳しい。科挙試験以来のベトナムの高等教育について、1986年のヂモイ体制下の現状までが記されている。巻末の年表を含め、ベトナムの教育史を学ぼうとする人は、大金(7200円!)を払ってでも購入しないといけない本だと考える。高等教育だけではなく、基礎教育についてもちゃんと記されている。筆者としては、参りました(降参)という本である。



②大塚豊監訳『変革期ベトナムの大学』(東信堂、1998年)

 今、ベトナムの大学がどのようになっているのか、これを知るには、この本が一番よくわかる。監訳とあるように、ベトナムの研究者レ・タク・カンとオーストラリア人のデイヴィッド・スローパーの2人が編集した本を大塚氏が訳した本。近田氏も取り上げている歴史的な叙述もある。但し、現在のベトナムの高等教育(大学・大学院)の現状、問題点を明らかにすることが中心である。

 学生の成績評価は、「最高点が10点で、合格最低点は5点であ」(同書101頁)ること。そうだ。そうして成績評価してきたことを思い出す。「大多数の教員(80%を上回る)は学士号しかもっていない」(同書115頁)という実態は、この間、筆者自身の調査でも知ることができたことであり、改めて読むと理解が深まる。ベトナムの大学と協定を結び、教育開発に協力する日本の大学も多いだろう。事前にこの本に記された理解はしておくべきだろう。

③神田嘉延・ファム・フー・ロイ・関隆通『ベトナムの自立発展と生涯学習』(高文堂出版社、2003年)

 農村で行われている教育やストリートチルドレンの子どもたちに行われている教育などを扱っている。但し、第3章は「ベトナムの戦時下教育」を扱っており、補足資料もあって教育史を学ぼうとする人には利用しやすい。①・②の本に比べ薄い本だが、読み応えは十分ある。



④潮木守一編著『ベトナムにおける初等教育の普遍化政策』(明石書店、2008年)

 潮木氏らが科学研究費を利用して調査した報告書である。筆者たちは、ベトナムの人々と障害児教育・福祉セミナーを実施しているが、その際、ベトナム側の報告で、「教育の社会化」という語句が盛んに使われ、当初全く理解できなかったことを思い出す。「教育の社会化」とは、簡単にいえば、「政府のみならず、親や地域社会、民間企業など社会全体で教育を支えようという考え方およびその活動のことであり、具体的には家庭や地域、企業にも教育費の負担を求める動き」(同書77頁)のことである。その結果がどうなっているのかも本書には記されているから一読を勧める。

 障害児教育についての言及もなされている。例えば、初等教育普及率99%を達成するためには、「①障害児、②僻地居住の児童、③貧困家庭の児童」への教育が重視されねばならないことが記されている(同書38頁)し、「障害児教育の整備」についても記されている(同書177~178頁)。この本とあわせて英語版であるが、『Vietnam Education and Training Directory』(ベトナム教育訓練省MOET、2004年)をハノイで購入できた。よければ、現地で探して見られると良いだろう。


  
 第五回 ベトナムを理解する上での基本文献



 ベトナムに行って良かった、楽しかっただけから、複数回ベトナムに行き始めると、ベトナムという国を知ろうと思うようになる。そうした時に、紀行文や、例えば大阪府連のホームページにある桃木先生のコーナーや、筆者たちのコーナーなども参考になるだろう。しかし、やはり、書籍は書籍としての価値がある。そこで今回は、ベトナムをきちんと理解する上で欠かせないと考える基本文献を取り上げることにしたい。「工具」に相当するものだと考えて欲しい。



①石井米雄監修、桜井由躬夫・桃木至朗編集『ベトナムの事典』(同朋舎発行・角川書店発売、1999年)

 まずは、この本から。しかし、最近、売り切れと表示されている場合が多く、購入するには、古書店で検索が必要かも知れない。値段も張る(9500円!)。しかし、丸ごと一冊ベトナムづけ。わからないことがあれば、項目を引け。データは、やや古くなっているが、おおよその内容は理解できる。各項目は、それぞれその分野にふさわしい方が記しており、わからないことがあれば、この本をまず調べて、さらに新しいデータをネットで探すと理解が深まる。



②石井米雄他監修、桃木至朗他編集『[新版]東南アジアを知る事典』(平凡社、2008年)

 我々は、というより、筆者一人かも知れないが、ベトナムなら、ベトナムについて近視眼的に捉えてしまいがちだが、言うまでもなく、ベトナムは東南アジア地域の国であり、近年は、ASEANの1国として存在感を示している。中学校の地理的分野でも、新指導要領は、世界の地誌についてきちんと扱うように修正された。しかも、多面的・多角的に理解するということは、その地域の人々の暮らしを比較し、共通点も理解することを要求している。資料編のデータも豊富である。ベトナムを東南アジアの1国として理解するためには、欠かせない本である。


③西川寛生『ベトナム人名人物事典』(暁印書館、2002年)

 上記2冊もそうだが、事典(辞典も含め)や年表などというものを作成するのは、舞台裏は大変である。私事になるが、筆者もその昔、社会福祉法制史年表なるものを作成する際、執筆(作成)担当者の1人に加わった経験があるが、大変苦労した。それを思うと、こんな本を1人で作成した西川氏に脱帽である。もちろん、この本が誕生するには、ドラマがあったようだが、そう簡単には完成しなかっただろうと想像する。



④桜井由躬夫編『もっと知りたいベトナム(第2版)』(弘文堂、1995年)

 ①の入門編と考えて読めば良いだろう。歴史も、現状もそれぞれの第一人者が執筆している。つまり、適任者が書いているから、安心して読める。嘘がないというより、様々なデータに裏打ちされた事柄を読みやすく記している。



⑤今井昭夫・岩井美佐紀編著『現代ベトナムを知るための60章』(明石書店、2004年)

 ④と同様の入門書。それぞれの分野の第一人者を大集合させて、読みやすくまとめました!という本。まさに、色々な顔を持つベトナムの姿を描いている。60章+コラムもあり、てんこ盛り状態で、読んでいて楽しい。



⑥坪井善明編『アジア読本ヴェトナム』(河出書房新社、1995年)

 ④・⑤と重複する入門書。どれも決して悪い本ではない。執筆担当者も重複していることが多いのが、④・⑤・⑥の特徴かも知れない。ベトナムに付き合い始めの方には、この本を含め、④・⑤から、読んでいくことをお勧めする。



⑦三橋広夫『これならわかるベトナムの歴史』(大月書店、2005年)

 とりあえず、ベトナムの歴史を手っ取り早く知りたい。授業で使いたいという教員の方にお勧めする。Q&Aになっているから、どこがポイントなのかが理解できる。



⑧森枝卓士『世界の食文化 ベトナム・カンボジア・ラオス・ミャンマー』(農文協、2005年)

 上記④~⑥にもベトナムの食事、フォーなどについては記してあるが、この本は、食文化の視点から、取り上げている。ベト飯とカンボジア飯とは似ているのか、否かなど考えることができる。

これら以外にも、入門書はいくつかある。書店で探してみられることをお勧めする。しかし、とりあえず、手元にある本を並べてみたが、感慨もひとしおである。よくまぁ、こういう本を買い漁ったなという意味もあるし、専門は、ベトナムじゃなかったはずだが、という、相反する気持ちが交差している。本はどの本も価値がある。


第六回  「歴史と民族の発見」



 仰々しくも、サブタイトルに「歴史と民族の発見」などと記したには訳がある。こんなサブタイトルで、引っかかる人もそういるとは思えないが、このサブタイトルは、れっきとした本のタイトルである。おそらく、若い研究者の方や、日本史を含む歴史を勉強し始めた人、歴史学以外の方たちには、何を言っているのかさえ、わからないだろうが。

 「歴史と民族の発見」とは、石母田正という日本古代史の――それこそ大御所中の大御所、と私は理解している――先達が著わした本のタイトルであり、日本史を勉強し始めた今からずっと前(ウン十年以上も昔)に「民族」だとか、「政治史」というものが存在することを教えてくれた本である。ここまで、読んでいただいたとして、「ふ~ん」で終わり、何の感想もわかないなら、あなたは、かなり若い人であるか歴史学とは違う勉強をされてきた方である。筆者と同年齢か、その前後の方なら、ひよっとして、クスっと笑い、あ~パクリだな、と、この後を読んでくださるかもしれない。

 さらに、悪乗りして、いっそのこと「帝国主義と民族」などというおどろおどろしい用語が2つも並んだサブタイトルにしようとも考えた。こちらも、前者と同じくパクリである。こちらは、江口朴郎という現代史研究者の著作。筆者などの世代で、歴史学を学ぼうと、しかも、近現代史を学ぼうとした人間にとっては、必読文献の1つであった。著作集まで購入した。この間、ベトナムの民族や近現代史に関する本を立て続けに読んだことで、昔の記憶が蘇り、サブタイトルにさせていただいたという次第である。

 さて、能書きはこれくらいにして、ベトナムは多民族国家である。公式というか、日本では54の民族に分かれているとされている。ところが、別のコーナーでも記したとおり、現在は56民族となった、とベトナムの学生たちは証言した。そのあたりの問題は、別に調査し、述べることにして、ベトナムの歴史や民族に関する本を紹介することにしたい。



①古田元夫『ベトナム人共産主義者の民族政策史』(大月書店、1991年)

 日本ベトナム友好協会会長の古田氏(それこそ、筆者にとれば、古田先生であるが)が書かれた本。但し、この本はおそらく一般書店では手に入らないと思われる。古書店での検索が必要だろう。中身は、というと、そう簡単には説明ができない。54(ないし56)ある民族が、ベトナムの革命運動(抗米救国戦争をはじめ)にどのように関与していたのか、あるいは、どのように組織(リクルート)されていったのか、という問題を取り上げている。この本の中で例の有名な定義(テーゼ?)である「貧しさを分かちあう社会主義」(499頁)が登場するが、それとても、注があり、この本以前に発表されていたことが理解できる。多民族国家であるベトナムが、民族同士の壁を乗り越え、どう進んでいったのかが理解できる。

 しかし、この本はともかく、分厚い。気合と根性を入れて読まないと読みこなせない。ある種、ここまで明らかにしたのだから、かかって来るならどうぞ、と言いたげな本である。筆者とすれば、ただ学ばせていただきました(降参)。そして、開き直り。だって、日本史だから、という逃げである。

②古田元夫『ベトナムの世界史』(東京大学出版会、1995年)

 古田先生のもう1つの本もあげておくべきである。この本は、時々利用させていただき、別のコーナーの「200万人餓死」についての説明でも引用している。ベトナムから見た世界史。隣接する中国の文化をどのように取り入れ、さらにフランスの文化をどのように取り入れていったかが理解できる。このように読むと、近田氏の著書『近代ベトナム高等教育の政策史』の中華モデル、フランスモデルなどのアイデアがここから生まれたように、思える。この本も場合によれば、手に入りにくくなっている可能性が高い。

③松本信広『ベトナム民族小史』(岩波新書青版715、1969年)

 お読みいただいている方も、おそらく、びっくりされているかも知れない。「おいおい、名著かもしれないが、そりゃあなんだ。反則だ」という声も聞こえる。確かに古い。古書店で見つかればラッキー。筆者も、古本屋の片隅で見つけ、小躍りし、買い求めた本。今は研究が進み、書き改めないといけない箇所もあるだろう。が、要領良く、新書で読めるベトナム史である。「こんな本もあるのです」という紹介も兼ねて、記すことにした。買えないからといって心配は無用。これに代わる本として、小倉貞夫『物語 ヴェトナムの歴史』(中公新書) があり、こちらが、手に入り安く、十分読みやすい。

④立川京一『第二次世界大戦とフランス領インドシナ』(彩流社、2000年)

 ともかく、外国語恐怖症の筆者にとれば、ただただ尊敬。フランス語とベトナム語の生の史料(一次史料)から、1940年代のフランス領インドシナ時代のベトナムの状況を明らかにした本。しかも、立川氏は防衛庁(現在の防衛省)戦史部に勤務されているので、戦史史料も検索し尽くしてこの本ができたようである。この本から知った一番の収穫は、日本は米を求めてベトナムに侵略を開始したことである。例えば、第2章には「仏印物資の中で日本がもっとも必要としたのは米である」(189頁)と記されている。また、200万人餓死の原因にも触れて、「一九四四年から一九四五年にかけて北部仏印一帯は米不足による飢饉に襲われるが、日本によるジュート栽培は飢饉を将来した原因のひとつとする見方がある」(199頁)と指摘している。

⑤栗原浩英『コミンテルン・システムとインドシナ共産党』(東京大学出版会、2005年)

 「コミンテルン」と聞いて反応できた人は偉い(?!)。著者も冒頭で、いささか自嘲気味に「…『コミンテルン』が一体何であるのか説明するのは至難の技になりつつある」(まえがき)と記している。コミンテルンとは第3インターナショナル(ちなみに、第1は、マルクス・エンゲルスが、第2はその後結成されたが、戦争協力の方向性を取ったため、レーニンが第3を設立するよう呼びかけ)という世界の共産党組織のことである、と、とりあえずは理解しておかれると良かろう。筆者など、この怪しげな団体から承認された日本共産党の初代委員長、堺利彦の思想を修士論文で扱ったから、それこそ、今さらながら、説明などいらぬ。デミトロフ。「あ~!昔読んだ。人民戦線」。クーシネン。「アジア関係の人ね」と、思わずタイムスリップしそうになった。脱線ついでに、グェン・アイ・クオック(ホー・チ・ミンのこと)と同じ役割というか、同じような仕事をしていた片山潜はどうしていたのか、そして交流があったのか、などと考えてしまった。

 ところで、①の古田先生の本にもあるとおり、ベトナム共産党は、ベトナム共産党として誕生したのではない。この本のタイトルのように、「インドシナ共産党」として誕生したのである。著者もまた、語学が万能である。ロシア語とベトナム語ができる。ソ連崩壊後、一斉に発表され、読むことが可能になったコミンテルン史料を読み込んで、インドシナ共産党の創立を明らかにしている。この史料が明らかになったために、驚くべき実態が我々の了解できる範囲を越えて発表されたのであった。デミトロフや、野坂参三がそうである。

 コミンテルン史料を丁寧に読み込んだ著者は、コミンテルンは、前期と後期のシステムがあり、このシステムの中で、インドシナ共産党は創立されたこと。東南アジア諸国や中国の党とも関係を持っていたこと。創立されたばかりのインドシナの党では、路線対立があったこと。コミンテルンで養成された幹部と現地の活動家(土着共産主義者と著者は記す)との摩擦や対立。ホー・チ・ミンの帰国は非常にラッキーであったことなどを明らかにしている。

⑥伊藤正子『エスニシティ<創生>と国民国家ベトナム』(三元社、2003年)

 いよいよ民族そのものである。伊藤先生は、本府連のお一人である。筆者が講演をお願いし、お受けいただいた。私たちは、ベトナムに行くと普通、キン族のベトナム人と出会うことになる。近年では、サパにも行きやすくなり、少数民族の人々とも交流できるようになった。ごく簡単に知るには、大阪府連の桃木先生のコーナーの「第7話 ベトナムにはいくつの少数民族が住んでいる?」を読まれると良い。

 この本は、タイー族、ヌン族とよばれる人々の調査をした結果を明らかにしたものである。ベトナム政府の少数民族政策「政治局22号決議」についても詳しく触れられている(187~191頁)

⑦伊藤正子『民族という政治』(三元社、2008年)

 筆者は、この本を伊藤先生からいただいた。「謹呈」と記された紙は、大切にこの本に保存している。前の⑥を受けて、より幅広く、民族について考察を加えた本である。これまで、くり返しベトナムの民族数は、54民族でなく、56民族になっていると記した。本書には1999年4月の国勢調査国定民族別人口の表があがっており、「民族分類されていない者」が1333人いることがわかる(100~101頁)。とすれば、ベトナムの学生たちがいう後2つの民族の増加は、この人たちの民族確定が行われた結果なのか、とも推測できる。ベトナムの少数民族の抵抗運動についても日本で紹介されている。果たして「民族」とは何か。その区別は、どうか。その結果、どのようなことが生じるのか。こうしたことを考えることは、「単一民族国家」などと能天気なことを言う政治家に任せ、我々も自分のこととして考える必要があるだろう。


 第七回 ~子ども向けの本~


 折角、このコーナーをホームページ管理者の勧めで書きはじめたにも関わらず、筆者の研究室――もちろん、家も同じく――の本棚からベトナム関係の本を取り出そうとすると、どこに行ったかわからない、あるいは、ある本を取り出そうとすると、本の雪崩が起きてしまう。こんなことでは、いけないとばかりに、研究室の本棚整理をした。そしたら、子ども向けの(大人が読んでも面白い)本があることに気づいた。今回は、そうした本を紹介することにしよう。

 近年、国際理解教育が小・中学校でも行われ、それ用の本が結構出版されている。写真も掲載され、楽しい本が多い。


①富田健次編訳『ベトナムのむかし話』(偕成社、1991年)

 かなり古い本だが、簡単に手に入るのだろうか。ベトナムで伝えられている昔話を集めて訳した本である。ひよっとしたら、小学校や市町村の図書館などに入っていて、借りることができるかも知れない。ベトナムが儒教の国だったことは、「ヴァン=リンとヴァン=ラン」を読むとよくわかる。登場する動物も、ベトナム人が大好きな龍、亀(「ホーホアンキエム湖のおこり」)など、やはりベトナム独特である。

②西村佐二指導『ベトナムの子どもたち』(学習研究社、2001年)

ヒゥ君とバアンさんという男女2人の子どもをモデルに、子どもたちの日常生活を通してベトナムを紹介する。ベトナム語の挨拶や数の数え方も載っている。自転車で4人乗りしている写真もあるが、「バイクだろ!」と突っ込みを入れてしまった。このシリーズには、『カンボジアの子どもたち』も発行されている。

③歴史教育者協議会編『はじめてであうアジアの歴史―ベトナム・ラオス・カンボジアの歴史』(あすなろ書房、1997年)

 

 インドシナ3国の歴史を丁寧に扱った本。フランス・日本の侵略、ベトナム戦争のこともきちんと扱っている。カンボジアは、ポル・ポトについてもきちんと触れられている。子ども向けの本としてはかなりしっかりしていると思ったら、それもそのはず、なぁ~んだ。白石昌也、古田元夫、桃木至朗などの専門家が書いているのである。参考文献もきちんと記されている。専門家が書いているからというだけでなく、押さえどころがきちんと押さえられているという点で、お勧めする。



④こどもくらぶ編『世界の市場アジア編⑤ ベトナム・カンボジア』(アリス館、2007年)



 ベトナム独特の魚醤ニョックマム(ヌックナム)や様々な物が並べられている市場に行くのは楽しい。ハノイのドンズアン市場からはじまって、サパの市場、ホーチミンのビンタイ(ベンタン)市場、フエのドンパ市場、水上マーケットと一通り写真付きで掲載されている。ハノイの卸売市場についての説明もされている。夜空市場と説明されている。何故、夜なのかの説明もして欲しい。冷蔵庫があまり普及していないから、涼しくなった夜に卸売市場を開くのだ、聞いたことがある。カンボジアについても、ポル・ポト政権のジェノサイドやカンボジア経済の復興についても扱われている。先の③が、歴史学習向けなら、こちらは地理学習向けである。

⑤アジア保健研修財団「アジアのこども」編集委員会編『アジアの子ども』(明石書店、1994年)



 この本は、ベトナムやカンボジアだけでなく、パキスタン、ネパール、バングラデシュなどアジア諸国の子どもたちについて取り上げられている。ベトナムの子どもについては、ベトナム戦争当時の子どもについて取り上げられている。その子が成長して…そして今は、というお話。カンボジアについてはポル・ポト政権の時期の話である。コンパクトにまとめられており、それぞれの国の歴史もわかるように工夫されている。

⑥吉田忠正、文・写真、坪井善明監修『体験取材!世界の国ぐに―17 ベトナム』(ポプラ社、2007年)



 子ども向け、ベトナム紹介本で、最新のもの。坪井先生が監修されているので、購入してびっくり仰天。だって、知り合いの姿が写真で掲載されているのですから。「嘘!これはなんという本なのだ」と言ってしまった。ベトナム戦争から復興した国として説明が始まり、環境保全(マングローブ林)、市場、果物、農村と都市の生活、少数民族の暮らし、学校生活、子どもたちの遊び、伝統文化、信仰、ベトナム戦争の後遺症、日本とベトナムの関係など、読みやすく現在のベトナムを知るには一番新しい内容が記されている。信仰では、ヴィン・ギェム寺や、ホーチミン市の大聖堂の写真もある。ホーチミン市の戦争証跡博物館の紹介、ツーヅー病院平和村の紹介もある。なかでも一番驚いたのが、日本とベトナムの関係を紹介したコーナーで、白井尋さんと江崎智里さんのことが紹介されていること。そんなこと少しも知らなかった。丁寧な取材と行き届いた監修の成果だと思う。知らない人は是非購入されることをお勧めする。

⑦グェン・ティ作、高野功訳、いわさきちひろ絵『母さんはおるす』(新日本出版社、2004年新装版)



 ハノイでちひろ展が開催され、本屋にもちひろの絵本(ベトナム語の)が売られていた。おもわず手に取り、購入し、知り合いの方に差し上げた。ベトナムのお母さんたちや子どもたちに読み聞かせをするとのことだった。

 この本も有名な本。絵本というより、ベトナム戦争のことを考える際に、大学生に読み聞かせするのも良いかもしれない。高野功氏は1979年、カンボジアとの戦いの取材中に亡くなった赤旗記者。亡くなる顛末は聞いたことがある。ちひろの絵はやはり可愛い。そして、色がついていないだけに、逆にリアルである。

今回の結論。子ども向けの本と言って軽く考えてはいけない。何を伝え、理解してもらいたいかを考えた人たちが作った本は、意味があるし、役に立つ。

    
 第八回 政治・経済関係



 少し、期間をあけ、サボっていたら、ホームページ管理人から、「次はまだか」の催促がやってきてしまった。筆者には筆者の事情が…。しかも、突然の、穴埋め原稿の依頼は、これまた、ベトナム関係者。許しを乞うと、休む間もなく再度の督促。やっと、少し時間が取れたので、このコーナーの続編を、ということである。

 さて、今回は、現代ベトナムの政治・経済について理解するための書籍紹介。少し古い本もあり、古書店などで丹念に調べる必要があるかもしれない。しかし、必要な方は、調査してでも、購入されるだろう。



①坪井善明『ヴェトナム現代政治』(東京大学出版会、2002年)

 坪井氏の岩波新書については、すでに紹介済みである。この本は、最近の新書への繋ぎにあたる本という役割を果たしているとも考えられる。ベトナムの政治・社会全般について扱っている。この本で筆者が知ったこと。それは、生涯独身と勝手に思い込んでいたホー・チ・ミンが実は結婚していた、ということである。別に「建国の父」である彼に妻子があっても一向に構わないことであるが、生涯独身だったと思い込んでいたので、名前まで上げての記述にいささか驚いたのである。タン・トゥエット・ミンという中国人女性と1926年10月に広東で結婚式をあげた(同書93頁)という。その後、離婚し、1931年春、グエン・ティ・ミン・カイという女性と結婚したようだが、ホー・チ・ミンもそして、結婚相手のミン・カイもほぼ同時期に官憲に捕らえられ、1935年7月には2人の関係は終了したようだ(同書94~95頁)。

 教育についての記述もある。例えば、「一番の問題は教え方と授業内容にある。小学校から教師は厳しく暗記中心の授業をする」(同書216頁)と記されている。また、大学教育についても、「(学生たちが―引者注)ヴェトナムの大学を見限り、海外の大学に留学を望む」、「皮肉なことに、共産党のトップ・リーダーの多くは子弟をいち早く海外に留学させている」(同書217頁)。筆者も同感である。事実、ハノイで、名門の共産党一家の招待を受けた経験があるが、一族の青年が海外留学をするというので、そのお祝いの会に招待されたのである。医者、新聞編集者、軍人など、政府やその周辺の要職についている名門一家の青年は、近日中に留学するという。しかも、国費留学で。名門は、あくまでも名門であり続けるのだ、と、いささかやっかみ半分で、お祝いの会に出席していたことを思い出す。日本の世襲議員の話題が取り上げられているが、本質的には同じ問題であろう。坪井氏は、記す。「中長期的に見れば、国内の大学で国の将来を担うようなリーダーを養成していないことになる」(同書218頁)と。



⑦グエン・スアン・オアイン『ベトナム経済』(明石書店、2003年)

 上記④の続編。新たなデータに基づいて執筆されている。経済については、同書を直接読んでもらうことにして、本書でも、教育について取り上げられているので、紹介しておく。

  一般的に言って、教育・訓練に関する現行のシステムは、かなり質の低いものであっ

  て、新しい才能や技術を生み出す能力が限定されている。(中略)教師と学生の双方に

  とって、一二年間の小中等教育と四年間の大学教育のなかで一致して向けられる努力

とは、将来の労働市場で利用するに必要な、一連の証明書や卒業証書の取得を目的と

しているにすぎない。教師も学生も真の教育の価値についてほとんど関心がないよう

である(同書142頁)。

さらに、次のようにも。

  誰の目にも奇妙なことに、毎年二億冊近く発行される膨大な数の教科書が、それを副

  次的にしか扱わない教師たちの独占物とみなされていることである。おそらく、一部

  の教師たちにとってそれらの活用法とは、ほとんどすべての授業時間をかけて、新し

  い科学教材や非科学教材をクラスで口述することによって、それを生徒たちに書き取

らせることなのであろう。口述された内容を書き写すことは、多くの場合、良質な参

考書や教科書に比べて、粗末で不十分なものであることが知られている。教材をこの

ように扱うことは、戦争時代からの不必要な遺産であって、完全に廃止されるべきで

ある。/最後に、現行の教育方法もまた改められるべきである。一、二時間にわたる長

い講義、それも多くの場合、教師による独白の類の講義は廃止されるべきであり、主

としてゼミ形式のクラスに転換されなければならない。教師と生徒の間での、十分に

計画され指導された対話こそが、より多くの関心と活力を喚起し、議論と研究におい

て新しい問題や課題を発掘していくことになるであろう(同書144~145頁)。

オアイン氏は、単なるエコノミストでなかったことが、引用文からも理解できるであろう。経済が豊かになることは、経済格差が広がり、特定の社会層だけが浮上することではないはずである。無論「横一線」の悪しき平等主義が良いなどとは言わないが、ある特定の階層だけが、上前をはね、利益を被ることを、ドイモイを立案したされるオアイン氏が望んでいたのではなかったことだけは確かなことであろう。

⑥中臣久『ベトナム経済の基本構造』(日本評論社、2002年)

 上記⑤の改訂版ともいうべき著書である。この本で、硬直した「社会主義計画経済」の実態や、現物給付=バオカップ制について理解できた。些末なことかも知れないが、ベトナムで販売されている外国製煙草についても、この本を通じて知った。アメリカ製の煙草なら、ベトナム戦争時代にアメリカ軍がもたらしたと理解できるが、ベトナムに初めて行った際、何故、イギリス製煙草(「555」=スリーファイブ)を売っているのか、理解できなかった。その答えは、なんと外国崇拝の一種であり、貨幣としての意味を持っていたという。「闇取引における決済手段として利用されることも多かった」(同書86頁)ようだ。しかも、密輸によって。最終的にはベトナムの二重経済を変える必要が説かれているが、この点をベトナムの人たちはどのように理解しているのだろうか。

 次にベトナム経済に関係する書籍である。

④グエン・スアン・オアイン『概説ベトナム経済』(有斐閣選書、1995年)

 おそらく、筆者が、ベトナムのドイモイについて理解したく思い、最初に購入した本であったと記憶する。オアイン氏は元南ベトナム政府顧問。1949年に京都大学(京都帝国大学)経済学部を卒業し、ハーバード大学大学院で経済学博士を授与された。こうした経歴があれば、ベトナム戦争終了後、ベトナムからの脱出を図るのが一般的であろうが、それをせず、ベトナムに止まった。同書巻末の「著者紹介」にその間の事情が記されている。「…‥私が亡命しなかったのは、これまで何も悪いことをしていないからだ。どうして、海外に逃げなければならないのか。もし、政治に参加して、共産党に対してひどいことを行っていたならば、海外に逃げることは当たり前かもしれない。私は、銀行家としてテクノクラートとしてやってきた。何も悪いことをしていないので、怖くなかった」(同書270頁)という気骨ある人物である。とはいえ、オアイン氏は、2003年に鬼籍に入られた。

 ここで、もう1人のオアイン氏を思い出す。オアインという呼び方はおそらく、北部の標準語(ハノイ弁)だとすれば、南部ではオアンであろう、と勝手に推測して、私が尊敬してやまない、もう1人のオアン(オアイン)氏――グエン・チ・オアン氏――のことを。残念ながら、2009年5月1日、急死されたもう1人のオアン氏は、女性で、ベトナムの社会福祉の指導者だった。2008年11月、オアン氏へのインタビューをした際にも、同様のことを言われた記憶がある。「私はベトナム戦争に反対していました。だから、逃げることはしませんでした」と。偶然かも知れないが、気骨ある2人のオアン氏。(合掌)。

 閑話休題。エコノミストだったオアイン氏は、ドイモイの立案者と言っても過言ではない。本書では、その裏側についてQ&Aで答えている。ベトナム経済が貧しくなった理由についても、明確に、「一番大きな原因は政策のミスマネジメント」(同書143頁)だと述べている。教育についても、「現在、教師の給料があまりにも安いことは事実です。教員を辞めて、民間に転職すると三倍くらい給料が増えるというのが現実です」(同書172頁)と述べている。

②白井昌也編著『ベトナムの国家機構』(明石書店、2000年)

 ベトナムの政治組織がどのような仕組みになっているのかについて理解するためには、この本が最適である。社会主義を目指す国独自の官僚機構が存在し、三権分立で理解している日本人の我々からは、わかり難い機構である。地方行政組織も、当然違っているので、そのあたりについて、学んでおく必要があるだろう。良い悪いという価値判断抜きで、ベトナムの行政組織は、こうなっているのだという理解がなければ、ベトナムとの付き合いは不可能であろう



③武藤司郎『ベトナム司法省駐在体験記』(信山社、2002年)

 上記②にも執筆している武藤氏の著書。少しくだけた話もあって楽しい本。ベトナムでの社会調査の難しさについての記述もある(同書113~120頁)。筆者は、武藤氏のような悉皆調査をしたことがなく、訪問調査をしたに過ぎないが、調査のしづらさを感じた経験もある。なかなかガードが固く難しい。体験記は、行って、見て、楽しかった風のものではなく、相手を理解しようとしながら、記されたものであり、入門編体験記にはない、辛口批評もあるので一読されたい。

次にベトナム経済に関係する書籍である。

④グエン・スアン・オアイン『概説ベトナム経済』(有斐閣選書、1995年)

 おそらく、筆者が、ベトナムのドイモイについて理解したく思い、最初に購入した本であったと記憶する。オアイン氏は元南ベトナム政府顧問。1949年に京都大学(京都帝国大学)経済学部を卒業し、ハーバード大学大学院で経済学博士を授与された。こうした経歴があれば、ベトナム戦争終了後、ベトナムからの脱出を図るのが一般的であろうが、それをせず、ベトナムに止まった。同書巻末の「著者紹介」にその間の事情が記されている。「…‥私が亡命しなかったのは、これまで何も悪いことをしていないからだ。どうして、海外に逃げなければならないのか。もし、政治に参加して、共産党に対してひどいことを行っていたならば、海外に逃げることは当たり前かもしれない。私は、銀行家としてテクノクラートとしてやってきた。何も悪いことをしていないので、怖くなかった」(同書270頁)という気骨ある人物である。とはいえ、オアイン氏は、2003年に鬼籍に入られた。

 ここで、もう1人のオアイン氏を思い出す。オアインという呼び方はおそらく、北部の標準語(ハノイ弁)だとすれば、南部ではオアンであろう、と勝手に推測して、私が尊敬してやまない、もう1人のオアン(オアイン)氏――グエン・チ・オアン氏――のことを。残念ながら、2009年5月1日、急死されたもう1人のオアン氏は、女性で、ベトナムの社会福祉の指導者だった。2008年11月、オアン氏へのインタビューをした際にも、同様のことを言われた記憶がある。「私はベトナム戦争に反対していました。だから、逃げることはしませんでした」と。偶然かも知れないが、気骨ある2人のオアン氏。(合掌)。

 閑話休題。エコノミストだったオアイン氏は、ドイモイの立案者と言っても過言ではない。本書では、その裏側についてQ&Aで答えている。ベトナム経済が貧しくなった理由についても、明確に、「一番大きな原因は政策のミスマネジメント」(同書143頁)だと述べている。教育についても、「現在、教師の給料があまりにも安いことは事実です。教員を辞めて、民間に転職すると三倍くらい給料が増えるというのが現実です」(同書172頁)と述べている。



⑤岩見元子『ベトナム経済入門』(日本評論社、1996年)

 現在では、ここで取りあげられているデータは古いものになってしまっているだろう。しかし、「古典的」な名著というには、惜しい。貧しいはずのベトナム人が何故、ホンダ(バイク)を買えるのかという疑問は、ベトナムに行った人がまず、感じることである。その理由は、「インフォーマル・セクターの拡大」(同書80頁)にある。つまり、「所得隠しであり、要するに脱税である」(同書82頁)。だから著者は言う。「市場経済に移行し、インフォーマル経済がさかんになり、貧富の格差が拡大するようになった現在、所得税をきちんと徴収し、貧しい人々のケアをしなければ、金持や政府に対する一般の人々の不満がつのることになる」(同書83頁)と。



⑥中臣久『ベトナム経済の基本構造』(日本評論社、2002年)

 上記⑤の改訂版ともいうべき著書である。この本で、硬直した「社会主義計画経済」の実態や、現物給付=バオカップ制について理解できた。些末なことかも知れないが、ベトナムで販売されている外国製煙草についても、この本を通じて知った。アメリカ製の煙草なら、ベトナム戦争時代にアメリカ軍がもたらしたと理解できるが、ベトナムに初めて行った際、何故、イギリス製煙草(「555」=スリーファイブ)を売っているのか、理解できなかった。その答えは、なんと外国崇拝の一種であり、貨幣としての意味を持っていたという。「闇取引における決済手段として利用されることも多かった」(同書86頁)ようだ。しかも、密輸によって。最終的にはベトナムの二重経済を変える必要が説かれているが、この点をベトナムの人たちはどのように理解しているのだろうか。




⑦グエン・スアン・オアイン『ベトナム経済』(明石書店、2003年)

 上記④の続編。新たなデータに基づいて執筆されている。経済については、同書を直接読んでもらうことにして、本書でも、教育について取り上げられているので、紹介しておく。

  一般的に言って、教育・訓練に関する現行のシステムは、かなり質の低いものであっ

  て、新しい才能や技術を生み出す能力が限定されている。(中略)教師と学生の双方に

  とって、一二年間の小中等教育と四年間の大学教育のなかで一致して向けられる努力

とは、将来の労働市場で利用するに必要な、一連の証明書や卒業証書の取得を目的と

しているにすぎない。教師も学生も真の教育の価値についてほとんど関心がないよう

である(同書142頁)。

さらに、次のようにも。

  誰の目にも奇妙なことに、毎年二億冊近く発行される膨大な数の教科書が、それを副

  次的にしか扱わない教師たちの独占物とみなされていることである。おそらく、一部

  の教師たちにとってそれらの活用法とは、ほとんどすべての授業時間をかけて、新し

  い科学教材や非科学教材をクラスで口述することによって、それを生徒たちに書き取

らせることなのであろう。口述された内容を書き写すことは、多くの場合、良質な参

考書や教科書に比べて、粗末で不十分なものであることが知られている。教材をこの

ように扱うことは、戦争時代からの不必要な遺産であって、完全に廃止されるべきで

ある。/最後に、現行の教育方法もまた改められるべきである。一、二時間にわたる長

い講義、それも多くの場合、教師による独白の類の講義は廃止されるべきであり、主

としてゼミ形式のクラスに転換されなければならない。教師と生徒の間での、十分に

計画され指導された対話こそが、より多くの関心と活力を喚起し、議論と研究におい

て新しい問題や課題を発掘していくことになるであろう(同書144~145頁)。

オアイン氏は、単なるエコノミストでなかったことが、引用文からも理解できるであろう。経済が豊かになることは、経済格差が広がり、特定の社会層だけが浮上することではないはずである。無論「横一線」の悪しき平等主義が良いなどとは言わないが、ある特定の階層だけが、上前をはね、利益を被ることを、ドイモイを立案したされるオアイン氏が望んでいたのではなかったことだけは確かなことであろう。



 第九回  ~ベトナム戦争を考える~



少し時間に余裕ができて、この間、立て続けにベトナム戦争関係の書籍を読むことが可能になった。一口にベトナム戦争関係といっても、その数はずいぶんあるだろう。このコーナーの第1回(本来は別のコーナー用に書いたものであるが、コーナー設置と同時に第1回となった)などは、まさにベトナム戦争関係の書籍紹介だった。

筆者としては、ベトナムという国を戦争だけで捉えて欲しくないし、戦争一辺倒の理解は誤りだと考えるが、しかし、ベトナム戦争は、やはりベトナムにとっても、アメリカにとっても、そして、20世紀後半の世界の国々にとっても大きな意味があったということだけは確かである。以前から紹介すると記していた本も含め、紹介しよう。



①レ・カオ・ダイ『ホーチミンルート従軍記』(岩波書店、2009年)

 北ベトナムの従軍医師として、中部山岳地帯で戦闘に参加していた時の記録。著者については、枯葉剤関係の書籍が日本語訳されていることで述べたとおりである。

 まったくもって、戦争は様々な側面を私たちに見せてくれるものだ。第1に、当たり前のことだが、戦闘は毎日続くものではない。敵との戦闘ばかりでない「日常生活」を著者は淡々と記している。病院の建設の苦労、敵からの攻撃を受けた後の病院の移転・再建、食料の確保のための栽培とその工夫など。なかでも、食料として、森の中で象をハンティングし、それを食べるシーンは、圧巻である。というより、象は食料だったのだ、ということに気づかなかったから、驚いたということなのだが。

 また、政治集会への参加、そのための中部からハノイへの移動。妻からの手紙への感想など。この長い戦いの最中、著者の愛娘は、幼くして死亡する。戦闘が原因ではないが、子を亡くした親の気持ちが切々と綴られている。

 解説の古田元夫氏も取り上げているが、少数民族出身の仲間(女性)に対するキン族兵士の誤った姿勢。そのこともきちんと隠さず記されていて、著者が人々に分け隔てなく接していたことがわかる。



②『「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」』(講談社、2003年)

 ベトナム戦争に一兵士として加わったアメリカ人兵士(アフリカ系アメリカ人)の体験。子ども向けでもあるが、馬鹿にしてはいけない。彼は、アメリカ人兵士(精鋭の海兵隊員)としてベトナム戦争に加わった。1965年、18歳で海兵隊に入隊したネルソンは、生きた殺人マシーンとなる訓練をした結果、1966年、ベトナム戦争に参加する。ジャングルでの戦闘。誰が敵か見方かの区別などつかない。そうなれば、ベトナム人なら皆敵であり、皆殺し(ジェノサイド)しか方法はない。その繰り返し。

 しかし、ネルソンは戦いの中である日気がつく。「ベトナム人はグークス(gooks=アメリカ人が東洋人を馬鹿にしていう単語―引者注)ではない」ということに。そして帰国。

 帰国後、ネルソンを待っていたのは、暖かな家庭生活ではなかった。ベトナムから離れたものの、4年の契約だった彼は、23歳でアメリカに帰国するが、ベトナムが彼につきまといはじめ、家族からも拒否され、ホームレスとして生活をはじめる。ベトナムシンドローム(ベトナム症候群)、PTSDが待ち受けていた。悪夢のために眠れない。戦争体験を正直に語ることから自身を取り戻す。「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」は、小学校で体験を語った際、子どもたちからなされた質問である。答えに窮す彼。何分も汗をかき、ためらいやっと「Yes」と答えた彼に待ち受けていた子どもたちの抱擁。

 思えば、PTSDの事例発見、検討・対応はベトナム帰還兵へのケアから始まったのである。戦争は、兵士の精神をも蝕むのである。そのことは、旧日本兵も同様だったはずである。この本の最大の山場は、著者ネルソンが、日本国憲法第9条を引いていること(同書137頁)である。「日本が世界に誇れるものは、憲法9条と25条しかない」と言ったベトナム研究者仲間がいるが、その言葉が筆者の頭をよぎる。是非一読されるべきである。


③中村信子『ハノイから吹く風』(共同通信社、2000年)

 別のコーナーで、ベトナムの学童疎開について取り上げている箇所をまとめて紹介した。中村さんは、アジア太平洋戦争終了直前、日本に留学したベトナム人のルオン・ディン・クア氏と国際結婚した女性。クア氏は京都大学で農学博士となり、夫婦で帰国する。帰国までの様々な体験や、何故、クア氏が南ではなく、北ベトナムに行こうとしたのかは、直接、本書を読んで理解して欲しい。

 ところで、本書には、北ベトナムで実施された農地改革の誤りについても記されて(同書150~152頁)いて興味深い。こういう内容は、体験に基づく叙述が冷静に記されているから余計意味を持つと思われる。

農業合作社についての記述もある。中村さんとクア氏との間でこういう会話がなされたという。「合作社ができたからどうのこうのと一口には言えないが、第一に農民にやる気がなければどうにもならない。やる気を起こさせられる指導者を持つ合作社は豊かになる」とクア氏。「やる気のない合作社はどうなるの」と中村さんが質問すると、「貧しくなるばかりだ。だから、合作社の指導者の責任は重いものだ。合作社全員の心をつかまなければならないのだから」とクア氏は応えている(同書218頁)。

ベトナム戦争下の北ベトナムの日常生活がどのようなものであったのか、については、近年ようやく様々な書物で理解できるようになってきたが、この本でも戦闘ばかりではない、この本で言えば、北爆ばかりでない、人々の生活が理解できる。

なお、中村さんは、1975年4月30日、ハノイ中央放送局の日本人アナウンサーとしてベトナム解放を伝えた人である。一冊の本から読み手の興味関心によって様々なことが理解できる本である。


 第十回

 今回は、紹介する本の数は少ない。まず、古田元夫著『ドイモイの誕生』(青木書店)、発売されたばかりの本である。

 1986年から進められたドイモイ(刷新)政策は、どのような過程を経て、進められたのか。ベトナム共産党は、どのような論議を行った結果、その政策実施に踏み切ったのか。この点について、ベトナムの『党文献全集』をきめ細かく調査、資料(史料)収集を行い、関係資料の整理を行っている。加えて、未公開資料を筆写し、関係者へのインタビューを行い、本書は記された。

 ベトナム現代史を描く上で、ベトナム共産党、無論インドシナ共産党、ベトナム労働党時代の文献を読み込む作業は欠かせないものである。だが、言語の壁、当然古田氏はそれをクリアされているが、また、ある種の「秘密主義」のベールがかかり、資料的に明らかにできず、推測の域に止まっている場合が多かったと言えよう。

1998年以降の『党文献全集』の刊行を利用し、本書はその核心部を明らかにすることに成功した。この資料を丹念に読み込み、明らかにされたドイモイの裏側は、実に波乱に富んだものである。まず、ドイモイ実施に先行して地方での実験が開始される。あわせて、農業合作社の生産請負制も実施された。つまり、市場経済の導入が「実験」の名で開始されたのである。これに対し、「社会主義経済」を進めるべきだと考える党内のグループが抵抗する。その中でも「保守派=社会主義経済推進派」と目されたチュオン・チンが、実験の状況を知り、改革派に転じていく。彼の下に「研究グループ」が組織され、ネップ研究が開始される。そしてついに、ドイモイをベトナム共産党第6回大会(1986年12月)で公認し、推進することとなった。こう簡単にまとめてしまうと本書の肝心な部分は、漏れ落ちてしまうが、そこはしんどいだろうが、自分で読み進むことをお勧めする。ドイモイという影響力を持つ政策の実施は、そうやすやすとは進まなかったことが、理解できるだろう。

そして、「あとがき」に古田氏が東大副学長をしていた時のことを記されている記述も、注目すべきである。「注がついている本を書きたいので」は、凄すぎる。ベトナム現代史研究の最前線を歩く古田氏の言葉は、重いものである。

次に、朱建栄『毛沢東のベトナム戦争』。こちらは、中国側から見たベトナム戦争、あるいはベトナム労働党と中国共産党との関係、文化大革命に至る経緯を明らかにしたものである。朱氏は中国人研究者で、国際政治学者である。同書も古田氏の著作同様、中国側の資料を丹念に読み込み、文化大革命に至る中国政府の動向を明らかにしている。当時中国は、ソ連との間で、中ソ論争をしていたのである。ソ連、なかでもフルシチョフとコスイギンの時期、中国共産党は、ソ連が修正主義、米ソ関係改善を進めていると批判し続けていた。一方、ベトナムは、中国とソ連の間で揺れ動く。両者が協力して支援をしてくれることが望ましいが、両者の関係は日増しに悪化する。

 中国外交の本当の狙いは何か。オブラートに包んだようにしか語られず、発表されない。日本を含む資本主義諸国の動向は、『参考資料』という形で整理され、党幹部に伝えられる。ベトナム戦争の激化に対し、中国はついに人民軍をベトナムに送り出す。のべ32万人の兵士が送られたという。当時の中国は、ソ連を、そしてアメリカを敵視し、ベトナム戦争の拡大を怖れながら、国内では文化大革命を実施したのである。その過程が豊富な資料で明らかにされている。「事実は小説より奇なり」である。国際関係の中で中国が、ベトナムが動いていたことが十分に理解できるだろう。戦争は真正面の敵だけを相手に進められていたのではない。戦時の外交を知る上で欠かせない本である。

 
 
第十一回  ―ベトナム難民問題関係書籍―



 これまで、何度かこのコーナーで扱ってきた書籍は、現在のベトナムについて歴史的にあるいは、政治・経済の姿を理解する上でその助けとなるものだったと考える。今回は、それとは別の「もう一つのベトナムの姿」に関係する書籍を紹介することにしたい。

 1975年4月30日のベトナム解放は、ベトナムのすべての人々の解放ではなかった。当時の南ベトナム政府(ベトナム共和国政府)の政府要人や関係者、社会主義政権の誕生に批判的な人々は、ボートピープルを含め、様々な形でベトナムを離れ、アメリカをはじめ、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、日本などの国々で生活している。そもそも、日本が難民問題を考える必要に迫られたのは、ベトナムから難民として脱出してきた人々への対応をすることになってからのことである。



 まず、古屋博子『アメリカのベトナム人』。この本は、アメリカに脱出し、その後、アメリカ国籍を取得して同国内で生活しているベトナム系アメリカ人の様子を丁寧に調査し、その動向を明らかにしている。一口に「ベトナム難民」と言っても、ベトナムを離れた時期やその理由は異なることが明らかにされている。1975年4月30日前後の難民(同書では、「一九七五年難民」と記されている)は、南ベトナム政府軍関係者及び政府公務員とその家族、カトリック信者が多いことが理解できる(同書61~62頁)。その後、1979年以後、ボートピープルという形で、脱出する人々が増加する。中国系ベトナム人(主に華僑)に対するベトナム政府の対応に不満を持った人々の脱出があり、次にベトナム人の脱出が続く。その原因は、南部の社会主義化(社会主義政策の実施)、中越紛争、カンボジア侵攻などがその背景にある。1980年代になると中国系ベトナム人ではなく、ベトナム人が脱出する。中国系ベトナム人として差別され、ベトナムでの生活を捨てるのではなく、家族の誰か1人を海外に出国させるというやり方が多かったと、同書では実例を示し紹介している(同書84~89頁)。その理由は今一つ明らかではない。それでも彼らは、アメリカをはじめとするいわゆる西側諸国や社会主義ではない東南アジア諸国への脱出を行った。

 アメリカに住みついたベトナム系アメリカ人たちは、反共産党運動をアメリカ国内で行う者もいた。しかし、その後極端な反共運動ではなく、ベトナムの民主化運動へと運動も変化していくし、ベトナム政府の国外出国者への対応変化もあり、ベトナムに一時帰国する者、アメリカで稼ぎ、ベトナムに住む家族・親族に送金する者が増加する。おおまかに記すと、現在は上記したベトナム政府の対応と在外ベトナム人との間の微妙なバランスが保たれていると考えて良いだろう。


次に、武永賢『それでも日本人になった理由』。ベトナム人「ヴー・ダン・コイ」という1965年生まれのベトナムの少年が、1982年、ベトナム政府が認めた「合法出国」で日本に脱出し、現在医師として日本国籍を取得している様子を記した本。実体験を語った本である。

 1977年から81年まで7回の亡命に失敗し、82年、ようやく「合法出国」が許されたのである。武永の父は南ベトナム政府の高官であり、再教育キャンプに入れられることを怖れ、ジャングルでの生活を余儀なくされた。そのことが彼の脱出に影響し、カンボジア侵攻に兵士として参加することが予想されること、長兄が日本に留学していたことなどの理由から日本への亡命を実施したのであった。

子ども向けの本ではあるが、アンドレア=ウォーレン『戦争孤児ロンくんの涙』。ベトナム戦争で孤児になったロンが、アメリカに養子として受け入れられ、マシュレー・レィ・スタイナー、通称マットとよばれるアメリカ人として生活し、現在は医師である。マット、つまりロン君の父はアメリカ人、母はベトナム人であった。父が母を捨て帰国し、母がロン君を育てていたが、おそらく経済的に苦しくなり、ベトナム人の夫妻に養子出そうとしたが、ロンが拒絶し、母の元に戻る。だが母は自殺してしまう。その後、祖母がロンを育てていたが、祖母も養育できず、ホルト・センターという児童養護施設に入所する。1975年4月、ベトナム解放直前、アメリカが実施した「ベビーリフト作戦」で脱出し、スタイナー一家の子どもとして成長した。

 ベトナム戦争は、たくさんの戦争孤児を生み出し、運良くアメリカに養子として迎え入れられた子どもの記録である。

しかし、こうした記録や研究書を読むと、いつも筆者にはすとんと納得ができないある種の「わだかまり」を感じてしまう。それは、国外脱出をしなければならなかった当事者しか、本当の気持ちや大変さが理解できないということであろうが、先のロン君の場合とは異なり、南ベトナム政府及びその関係者だった人々やその家族、親族といった人々の亡命の場合、確かに亡命せざるを得ない弾圧を予想し、あるいは実際に弾圧と言えることがあったとして、では、それ以前、あなたやあなたの家族・親族は、南ベトナム解放民族戦線の人々や南ベトナムの一般庶民に弾圧をしなかったと言い切ることが可能なのか、あるいは、弾圧を実際に行っていなくても、そうしたことに全く手を貸すことはしていないと言い得るのか、という反対側の視点に立った考察がなされていない、ないし弱いということである。
 今までのそれなりの生活がベトナム解放により崩されることは、当事者にすれば、非常な恐怖感を感じることだろう。しかし、それは、社会主義というイデオロギーに対する恐怖感だけなのだろうか。あなたが間接的に関係したことで、何千・何万もの人々が亡くなったということは、するりと抜け落ちることではないのか。確かに、大変な思いをして、経験をしてベトナムを脱出した。その苦労は想像を絶することであろう。だが、その裏に逆の立場で死んでいった人々がいることが想像され、記述されていないのは何故なのだろう。この「わだかまり」は、こうした書籍を読むといつも感じることである。さらに、そもそもベトナム戦争にアメリカが介入したことの誤りはどのように理解されているのだろうか。そもそもそこが問題の核心ではないのか。個人の回想・体験から深める事柄は山積しているように思える。


 第十二回 ――再びベトナム戦争に関する書籍――  (2010年)



ベトナム戦争(ベトナムの歴史・文化)を理解する必要性

 この間、相次いでベトナム戦争に関する書籍が刊行された。今回は、それらを取り上げることにしたい。

ところで、よく、ベトナムを研究している人たち(何も研究者だけでなく、ベトナムと様々なかかわりを持ち、あるいは持ちたいとしている人と言い換えても良い)は、「現在のベトナムのことを考える上でベトナム戦争(ここでは抗米救国戦争のことをさす)について、きちんと知る必要がある」と言う。この発言自体は、決して否定されるべきでなく、正しいと考えるが、では、こうした発言をされる人たちがベトナム戦争について、きちんとしかも丁寧に理解しているのか、と問うと意外に、当時の状況をフォローしていないことや、当時の国際関係の中でベトナム戦争のことを理解していないことに気づく(このことは、何も筆者が理解し得ているというのではない。現在も理解しようと努めている最中であることはもちろんのことだという前提で記している)。先の発言は、口先だけで、あるいはベトナムを研究する人々の間の「社交辞令」のように、この言葉が語られていることが多いことにいささか愕然とする場合がある。

 あるいは、もう少しベトナム戦争だけに絞らず、ベトナムの歴史全体や文化などに広げても良かろう。先の発言の「ベトナム戦争」の代わりに、「ベトナムの歴史/ベトナムの文化」という語句を入れてみても良い。つまり、「現在のベトナムのことを考える上で『ベトナムの歴史/ベトナムの文化』について、きちんと知る(知っておく)必要がある」と。だが、例えば「文化(ベトナムの文化)」のうち、ベトナムの仏教と言っても幅があるし、もう少し絞り込んで「大多数の人々は、禅宗と浄土教が交じり合った大乗仏教を信仰している」と言い換えても、このことが、その語られている言葉の内容どおりには理解されていないのだという経験をすることがある(事実、大乗仏教と上座仏教との違いすら理解していない研究者がいたことに驚愕した経験がある)。ベトナムの人たち(庶民としての)の生活や日常の物事の捉え方にこうした「歴史」・「文化」・「戦争」といったことは関係しているのであり、少なくともベトナムを理解しようとするならば(ここでは、敢えて「ベトナムから学ぶ(学ぼう)」などと言うのならなおのこと)、最低限知るべきことは、少々時間がかかろうとも学んでから、発言ないし、研究を進めるべきだ、と言って良いだろう。でなければ、私たちは、日本人という「サングラス」をかけた状態でしか、ベトナムについて(いわんや日本以外の国について)語る(理解する)ことしかできないだろう。だからこそ、手間ひまかかろうと、対象とする事柄に一挙に近づくことができなくても、歴史や文化を理解しようとすることが必要なのだと考える。

①『同時代史としてのベトナム戦争』(有志舎、2010年)

さて、上記したことを受けて、読みやすく、うってつけの本が今回紹介する本である。

1冊目は、2001年亡くなられた吉沢南氏の『同時代史としてのベトナム戦争』である。

筆者としては、生前、いくつかの著書を読ませていただき、勝手に私淑していた数人の歴史研究者の方の1人で、日本史関係では、黒羽清隆氏であった。両者とも残念ながら、在職中に亡くなられている(だから、亡くなられたことを新聞で知った時、驚くだけでなく、「無念」という思いがした)。

吉沢氏の著作としては、吉川弘文館から刊行された『ベトナム戦争』が有名であるが、今回の著書は、氏の遺稿集としての性格を有している。日本ベトナム友好協会会長の古田元夫氏も解説を記されている。この解説短くまとめられており、すばらしい。

すでに、いくつかの新聞などで書評されているであろうが、本書のタイトルが何故、「現代史」ではなく、「同時代史」と記されなければならなかったかは、本書の冒頭に説明されている。あえて引用しつつ紹介すれば、①研究対象が、研究者自身が生きてきた時代として、時代に向き合ってきたこと。②そこには、研究者の主体性と対象を客観的に説明しようとする能動的な作業の場と考えられること。以上2点の理由から、同時代史と述べられたのであった。

吉沢氏の作業は、研究者の主体性を保持しつつ、これまで低位に置かれていた(従来の歴史学の研究方法では重視されてこなかったオーラル・ヒストリー<体験者の言葉を聴き、その中から歴史的事実を浮かび上がらせ、客観的事実と向き合う>を手法として取りいれながら、臨場感溢れる研究を次々に発表されたものであった。この点で、私も吉沢氏の方法を何とか自分なりに取りいれてみたいと考え、学術振興会科学研究費補助金を得て調査をした際、ベトナムの社会福祉を「再発展」させようと尽力されたグェン・チ・オアン氏の調査を実施した経緯がある。

ところで、本書の最大の功績は、ベトナム戦争をベトナムだけに絞って論じるのではなく、日本(特に沖縄の)の、そして韓国の、もちろんアメリカの動きと重なり合わせながら明らかにした点にあるのではなかろうか。特に次に紹介する本の韓国軍のベトナム参戦についてもかなりの程度明らかにしている。ベトナム戦争は、アメリカ対北ベトナム及び解放民族戦線とだけの戦いではなかった。当時の極東アジアの、あるいは韓国の状況を、中国の状況を背景にダイナミックに捉えられている。

次の特徴。この視点は、本書の各論を貫いているとも言えるし、古田氏の解説でも述べられていることだが、ベトナムの民衆(戦時下にあった民衆)を単なる被害者として描いていないことである。無論、日本の民衆を含めての記述でもある。この点、吉沢氏は竹内好を引いて述べている。すなわち、「戦争は一面異常であるが、同時に日常性の延長あるいは凝縮でもある」という一文を引きながら。

さらに、吉沢氏の日常生活を知っている渡邊勲氏(元東大出版会編集者)のまとめも感動する。吉沢氏の著書の簡潔なまとめをされた後の一文。「当然のことかもしれないが、人間と人間集団を、定点観測する、そして時間軸観測をするのが歴史学である。人間に関心(インタレストとシンパシー)を持たない・持てない人間には、出来ない・やるべきではない学問である。別言すれば、歴史学ほど人間臭い学問はない」(同書235p)。そのことを吉沢氏は著書の中で明らかにしている。

②『戦争の記憶 記憶の戦争』(三元社、2009年)

 2冊目は、韓国人のベトナム参戦について明らかにした『戦争の記憶 記憶の戦争』である。著者の金賢娥(キムヒョナ)氏は、韓国の文学者。ナワウリ(韓国語で「私と私たち」いう意味)の市民団体の共同代表者をされていた。ここで、筆者自身の小さな驚きを差し挟む。吉沢氏の著書には『個<わたし>と共同体<わたしたち>』がある!何という共通性か。見ている視点は重なりながらも違うが、両者には通底するものがあると言えよう。

 閑話休題。本書は、これまで具体的に明らかにされてこなかった韓国人兵士のベトナムでの戦いについて、明らかにした本である。当時の韓国国内の政情(朴正熙政権の圧制)、から、アメリカのアジア戦略の一環で韓国はベトナム戦争に派兵していく。そして、「韓国側の被害者だけでも、死亡五千名、負傷一万名、数万名の枯葉剤被害者を生んだ」(同書320p)事実。

 ベトナム戦争に送られた韓国兵はどのような戦闘を行ったのか。事実としてその場にいれば、吐き気をもよおすベトナム民衆への一方的な殺害(皆殺し=ジェノサイド)が記されていく。何故、殺害されたのか、その理由さえわからない死に方(殺し方・殺され方)。アメリカ軍が行ったソンミ村(本書ではミライと表記されている)虐殺事件と同様の虐殺が次々に実施された。その理由は、誰が本当の敵なのかがわからない。ベトナム人はすべて「VN(ベトコン)」である。大人も子どもも、女性も高齢者もすべて。ここで、何度も引かれるアメリカ軍で語られた言葉。「もっとも良いベトナム人とは死んだベトナム人である」。逆に考えれば、アメリカ兵にせよ韓国兵にせよ、彼らは、恐怖にさいなまれていたのだ。周りは敵だらけ。守るものは我が身だけ。やられる前にやれ。この「論理」しか攻撃する側にはなかったのである。

 ベトナム側では、生き残った者の悲しみが語られる。そう、バオ・ニンが『戦争の悲しみ』で記したように。同様に本書は複合和音のように、日本の従軍慰安婦の語りが記されていることに注意すべきである。我々はこの問題を避けては通れない。南京を含め。

 慰霊碑の持つ積極的な意味も記されていて興味深いが、最後は、いくつかの引用によって締めくくろう。

「被害者の魂の癒し」(292p)

「他民族との信頼を築くには、忘却と経済交流だけでは不可能である」(293p)

「韓国国内でのベトナム戦争真実究明である」(294p)

「ベトナム民間人虐殺を語ることは、差異を否定し人間の自由と権利を抑圧する権力との闘いである」(295p)――そしてネルソンは立ち上がった。人間の尊厳をかけて――

「カメラの権力、レンズの世界観が変われば、登場人物は完全に違ってくるのだ」(300p)

「文化とは権力が内在するイデオロギーである」(302p)



 是非、2冊を続けて読まれることをお勧めする。そうすれば、ベトナムを通じて、世界が少し変わって見えるようになるかも知れない。

 
 第十三回 ベトナム経済の発展と仏教の史的展開



 別のコーナー(「ベトナム入門」)の方は、時々新しい記事を書くことがあったが、こちらは随分ご無沙汰をしていた。ベトナム関係の本が出版されていなかったというわけではないが、今ひとつ取り上げてみようという気分にならないものが多く、忙しさにかまけてほったらかしにしたままだった。

 さて、今回は、現在のベトナムの経済発展について扱った本と仏教についての本の紹介である。両者に関係はなく、ただ、私が同じ時期に読んだ本だということである。

 まず、経済発展に関する本。トラン・ヴァン・トウ『ベトナム経済発展論』(勁草書房、2010年)。近年誰もが感じていることだが、ベトナムを開発途上国の1つと捉えることはおかしい、あるいは誤っているのではないか、という疑問を持っていた。それに対するベトナム人経済学者からの解答がこの本である。すでに、インターネット上の経済用語の説明では、「VTICs」や「VISTA」などの用語が使用されていることがわかり、いずれも用語にも「V」、すなわちベトナムが中進国の仲間入りをしていることが理解できる。日本での報道では、ベトナムの「貧困率が昨年(2009年―引者注)の10.6%から9.5%に下がったこと」、「1人あたりの月額所得は昨年より8.9%増え、136万5000ドン(約5700円)にな」ったこと、「今年(2010年―引者注)の1人あたりの国内総生産(GDP)が1160ドルに達する」(『しんぶん赤旗』2010年10月22日付け)ことが紹介されているし、アジア開発銀行は、ベトナムを中進国に格上げしたことを明らかにしている。

 本書は、中進国ベトナムの経済発展について記されたものであると同時に、ベトナムが「中進国の罠」に陥らぬようにどうすべきかを記したものである。言うまでもないが、「中進国の罠」とは、中進国にまで経済発展を遂げたものの、そこに止まったまま、先進国にまで発展を遂げることができない問題のことである。これをうまく乗り切らないと、「罠」にはまり込み、脱却が難しい状態に陥る。そのために、どうすべきかを著者は提言しているが、私には、著者の指摘する第4、第5の箇所が気にかかる。著者は全部で5点の提言をしているのだが、その4番目に高等教育の拡大と共に「教育への予算配分と予算の不適切使用により教育の質が低下してきたことが指摘されている」(同書295頁)と記し、ついで5番目に「(ベトナムの―引者注)いろいろな側面(国家財産の使用、人事権、土地や金融資産の配分など)において政治的権力やコネがものをいい、不公平性、腐敗が顕著になっている」(同書295頁)ことを指摘している。これらについて、ベトナム人研究者が指摘し、改善の必要性があることを記していることは意味深いことであろう。無論、我々のような外国人研究者が例えばベトナムの政治・経済・社会について改善の方向性を指摘することは可能である。しかし、実際には、当該国の国民がどうすべきかが最終的には重要なポイントとなる。簡単に言えば、外国人が善意であれ、問題を指摘したとしても、当該国の人々が問題点と感じ、対応する方向を取らなければ意味がない。この点で、ベトナム人研究者が、改善の方向性を示す中で指摘したことは重要だと考える。さらに、ベトナム、あるいは中国を含めても良いが、「社会主義的市場経済」、「社会主義を志向する市場経済」という概念で捉えることが正しいのかが問われなければならないのではないか。この間、デービッド・レーン『国家社会主義の興亡』(明石書店)を読み、私なりに随分勉強になったが、それでもなお、「社会主義」という枠組みで捉える根拠が何か、今ひとつすっきり理解できず、かえってデヴィッド・ハーヴェイの『新自由主義』(作品社)で中国を「新自由主義国」として扱った紹介の方が理解しやすかったし、「国家社会主義」の理解についても、大谷禎之介「ソ連の社会は資本主義だった」(『歴史評論』2011年2月号(第730号)所収)という説明の方がより説得力あるように思われてならない。このあたりのことについては、かなり難しい議論を踏まえる必要があるだろうし、簡単に、市場経済=民主化=一党体制否定という議論に持ち込むことはできないだろうし、してはならないだろう。今記した結論だけで、ベトナムの政治・経済を云々する社会科学系の研究者がいるとすれば、それは物事を丁寧に理解しようとしていないと言わざるを得ないと考える。


次は、ベトナム仏教に関する本(論文)である。『漢字文化圏への広がり』(佼成出版社、2010年)の中に入っている「ベトナムの仏教」(石井公成執筆)と2つのコラム(桜井由躬雄「ベトナムバックコックムラの農民と仏教」、ファン・ティ・トゥ・ザン「現代のベトナム仏教」)である。

 よく知られているように、ベトナムは東南アジアにありながら、上座仏教国ではなく、仏教徒の大半は大乗仏教を信仰している。つまり、日本と同様、大乗仏教国である。もちろん、上座仏教が無いわけでも否定されているわけでもないが、大抵の人たちが大乗仏教を信じている。その理由は、ベトナムの仏教は中国から入ったものであるからである。石井論文は、ベトナム仏教の史的展開を丁寧に追いながら、説明をしている。仏教、ベトナム仏教や仏教史に興味や関心がない人にとれば、詳細な説明にいささか辟易するかも知れないが、ベトナム仏教の歴史は、同国の歴史に匹敵するだけの歴史を持っており、これほど詳細な説明がなされないと説きつくせないのだと理解すべきだろう。

 さらに、上座仏教ではなく、大乗仏教が広がっていることは、当然のことながら、国民の精神性やしいては文化にも影響を与えることとなる。私たち日本人がベトナムに行き、何となく懐かしさを感じる理由の1つは、このこと、つまり大乗仏教の広がりに原因の1つがあるように私には思われる。今さら、高校の倫理の内容を説明するまでもないだろうが、上座仏教の場合、救済は出家者のみであり、出家しなければ救済されないが、大乗仏教の場合、すべての人間が仏になる可能性を持ち、誰でも救済されることが約束されている。すべての人が出家・在家の別なく、仏陀になること(成仏)を目的とし、自らの悟り(自利)を求めるだけでなく、他人の救済(利他)に励む者は誰もが菩薩と呼ばれる。この菩薩こそが大乗仏教が理想とする人間像であり、こうした理解は、日本とベトナムで相違はない。ここから私は、ベトナムで実施されている寺院・仏教徒による社会(福祉)実践があるのだと理解しているのだが、仏教の理解からも、自分の関心ある事柄に引き付けてみると色々なことが考えられておもしろい。

 

 第十四回  ――報道写真・写真集など――   (2011年)

 

 このコーナーの記念すべき(?)第1回に平敷安常『キャパになれなかったカメラマン(上)(下)』(講談社、2008 年)を紹介した。今回は同じ、平敷氏の著した『サイゴンハートブレークホテル』(講談社、2010年)を紹介したい。前の2冊は、どうやら第40回大宅壮 一ノンフィクション賞を受賞したようで、今回の著書は、前2冊を補充し、新たな内容が盛り込まれているものである。

 最近、マスコミ(TV 界)の「戦場カメラマン何某」という人がよく出演しているが、彼が本当にその「戦場カメラマン」たるか否かは問わないし、マスコミに登場すること、あるい はいわゆる「お笑い番組」を中心に登場することを云々することもしないが、本当に「戦場」という修羅場で起きた一つひとつを報道するためにどれだけ努力し たのかについては皆目分からないし、ある種「偽者」風にしか受け取れないのは、筆者の勝手な理解なのかもしれない。ともあれ、その「戦場カメラマン氏」に 何かしら、うさんくささを感じてしまうのは事実であり、そういう風にマスコミに出ている暇があるなら、平敷氏の著作でも読んでみれば良いというのは、いら ぬお節介なのか。

 平敷氏が著さ れた3冊の本、なかでも今回著された著作の中で記されている事実や、取り上げられている人物たちは、いずれも今記した「戦場カメラマン氏」のようなうさん くささを感じないばかりか、それぞれの人々(国籍を問わない)の真剣さ、人間としてどのように生きていたのか、その後各人の「ベトナム体験」をどう濾過 し、昇華し、自らのものとしていったのかがわかり、納得できるものである。

 ところで、私 事に亘ることであるが、筆者は、平敷氏がこの本で記した何人かの写真家に直接お会いできた経験を持つ。まず、岡村昭彦氏は、岩波新書で『続南ヴェトナム従 軍記』を発表されてまだ日の浅い時期に、大阪の近郊都市高槻にある公立中学校で講演されたことがあった。筆者にすれば、その講演が初めての「ベトナム体 験」、あるいはベトナムについて学習する機会であった。

 その後、中村梧郎氏とベトナムでお会いした。中村氏は、『母は枯葉剤を浴びた』(新版、2005 年、岩波現代新書S125)や『戦場の枯葉剤』(岩波書店、1995年)を発表されている写真家であり、お会いする少し前まで岐阜大学の教授をされていた ので、「これしかないんです」とおっしゃられ、その時いただいた名刺は岐阜大学の教員時のもので、何もためらわず、岐阜大学教授の上に「前」とボールペン で書いてくださったものを持っている。この身のこなし方にある種感激したことを今でも思い出す。

平敷氏の本でも、中村氏のことが紹介されていて自らの体験と共に、「枯葉剤が青酸カリと同じぐらいの毒だと知ったのは、中村梧郎の本からで、何十年も後のことである」(187頁)と記されている。また、ベトナムに取材に行った記者・カメラマンが取材中に枯葉剤を浴び、その後ガンで死ぬ原因になっているのでは、と推測されている。

 次にお会いした写真家は、石川文洋氏である。2010年に開催した京都府連の50周年の集いで安斎育郎先生と一緒に報告をしていただいたのがきっかけである。遠路はるばる私たちのためにやって来てくださったことに改めて感謝するが、簡単なお礼状をお送りしたら、その後石川文洋写真集vol1(『沖縄』、ルック、1998年)と同vol3(『ベトナム報道35年』、ルック、1998年)の2冊をサインつきで頂戴した。なお、筆者が持っている石川氏の著作は、すでにこのコーナーで紹介したこともある『四国八十八ヵ所』(岩波新書11512008年)だけでなく、『ベトナムロード』(平凡社ライブラリー1941997年)、『戦場カメラマン』(朝日文庫、1986年)、『ベトナム 戦争と平和』(岩波新書9622005年)、『私が見た戦争』(新日本出版社、2009年)がある。筆者自身も意外に石川氏の本を持っていることに驚いたが、石川氏はそれだけベトナム戦争にこだわりを持ち続け、自分の体験 を自分だけに留めず、各地で話されているようだ。そのことは、平敷氏の著作でも、次のように紹介している。石川氏の戦場での「ニコニコ顔」(同書138頁)を高く評価した韓国人カメラマンの思い出とあわせ、石川氏の人柄がにじみ出ている。

  石川文洋も枯葉剤の悪を説いたり、平和集会に参加して非戦の尊さをキャンペーンし

ている。七二年からは北ベトナム側から取材したが、戦争中、南と北の両方から取材

したカメラマンは少ない。彼はその一人だった。(同書33頁)

さらに、次のような記述もある。

  石川文洋は誰よりも危ない戦場に行き、ベトナムに関しては南も北も詳しい報道写真

  家だ。たくさん、いい仕事もしたが、誰よりも多くベトナム戦争症候群があると思う。

  修羅場を生き残った彼は、「皆に悪イナァ」、という気持ちをこめて、四国の八十八ヵ

  所を巡礼したりしながら早世した仲間たちへの鎮魂の旅をする。(中略)口下手な彼が

講演会や平和集会で、非戦の尊さをとつとつと語り続ける。彼の戦争症候群はこんな

ふうな形で、癒されていくものだと思う。(同書481頁)

 平敷氏が同書の随所で、石川氏のことを記すのは、2人が同じ沖縄出身であること、同じベトナムで報道を通じて「戦友」であったことによるようだ。

 平敷氏の著作にも紹介されている他の本で筆者が持っているものについてもあげておこ う。残念ながら取材中に亡くなった沢田教一の写真集『泥まみれの死』(沢田サタ編、講談社文庫)。有名な、川の中を一家で逃げるシーンを表紙にした写真 集。石川氏のものを含め、カメラマンは、真実を伝えるために、どれだけ前に進み、写真を、映像を撮ったのかが分かる。こんな最前線へののめり込みは、一ノ 瀬泰造の本のタイトルではないが、『地雷を踏んだらサヨウナラ』講談社,1978年)になるというものだ。

 次に開高健『ベトナム戦記』(朝日文庫、1990年)。この興味を持ったら逃がして放さず、何が何でも現場に立ち丸ごと理解しないと気がすまないというこの作家は、戦場をヘルメットか ぶり走り抜け、逃げまどい、戦場から戻り、サイゴンのマジェスィックホテルで、大酒を食らうのだった。開高の本の写真を担当しているのが、秋元啓一であ る。この人についても平敷氏の著作で理解できる。

 さらに、デニス・チョン『ベトナムの少女』(文春文庫、2001年)。戦禍の中逃げまどうベトナムの少女がたどったその後の人生について。この少女についても平敷氏は記している。もちろん、ベトナム戦争を知る上での「古典的名著」ともいうべき本多勝一『戦場の村』(朝日文庫、1981年)もあわせて、読むべきだろう。新聞に限らず記者とカメラマンが写した事実を改めて理解することが必要であろう。


  

 第十五回 ベトナムの女性に関する書籍



 筆者は、かつて現代ベトナムの女性が抱える問題についての論考を発表したことがある(拙稿「現在のベトナムにおける女性問題」、『仏教福祉学』第15・16合併号参照)が、論文執筆の際に利用した書籍を含め、ベトナムの女性に関する書籍を紹介してみたい。

先に少しばかり、筆者が発表した論文について述べると、この論文では、以下に紹介するベトナム女性史の研究成果を取り入れて記した点が注目されると考えている。ベトナムの女性問題を取り上げた論文はいくつかあるが、歴史的に見てどのような変化があったのかについて歴史を踏まえたものは少ないと考えるからである。ベトナム女性を扱った論文・書籍は未だその冊数は多くなく、筆者が気づいていないものもあるだろうが、それでも徐々に刊行される書籍が増えていることは、研究の深まりを示すものと理解できよう。

それでは早速、ベトナムの女性に関係する書籍を紹介しよう。その第1は、林玲子・柳田節子監修『アジア女性史――比較史の試み』(明石書店、1997年)の中にある2つの論考である。1つは、チャン・ハン・ザン「工業化とベトナム女性のライフサイクルの変容」である。これは、論題からも理解できるように、女性のライフサイクルを工業化=発達ないし社会変化を軸として捉えたもので、19世紀後半以前の工業化以前の段階、19世紀後半~1954年までの、初期工業化の段階、1954年~85年にかけての社会主義建設初頭の段階、1986年以降のドイモイ政策導入の段階という時期区分をもとに、ベトナム女性の生活変化を簡潔に明らかにしたものである。ザン氏はベトナムで学んだ後、東京大学大学院で学び、最近まで、ベトナム国立社会人文科学院のセンター長として活躍されていたと思う。

2つ目に、片山須美子の「ベトナム」が掲載されている。これは、ベトナム女性史の整理をしたもので、ベトナムだけでなく、海外のベトナム女性史研究の動向が明らかにされているものである。


第2の書籍は、上記の片山の論考でも記されているレ・ティ・ニャム・トゥエットの『各時代を通してのベトナムの女性』の後半部、植民地時代から1968年までを片山須美子が編訳した『ベトナム女性史』(明石書店、2010年)である。同書は、上記の片山論考で紹介されていたが、一般には読むことができ難かったものを日本語訳して刊行したもので、研究史の上からも意義のあるものである。主に北部ベトナム=社会主義政権下のベトナム女性が抗仏・抗米戦争(ベトナム戦争)をどのように戦ったのかが具体例と共に紹介されている。この戦争の時期、ベトナムの女性は、妻・母・娘として、労働者(農民)として、兵士として様々な任務に就き、ベトナム戦争を勝利に向かわせる最大限の努力を続けていたのである。南ベトナム解放戦線に参加した女性も同様である。子ども向けのお話、グェン・ティの『母さんはおるす』(新日本出版社、2004年新装版)のお母さんは多数実在したことが理解できる。

 この本を読んでの、いくつかの感想。その1つ目。ベトナム人女性の強さ――「硬い」という表現が適当でなく、あらゆるものに適応しつつも、信念を曲げないという意味での強さ――は、ベトナム戦争の際、培われたのではなかろうか。抗仏戦争にせよ抗米戦争にせよ、植民地時代。それ以前の封建制の下で、男性からも低く扱われ、教育も受けられず、奴隷に近い扱いをされていた女性たちは、戦争を通じ、学習し、文字の読み書き、計算ができるようになり、家では、戦いに出る夫・男たちを支えながら、労働し、遂には兵士として戦場に出ていったのである。その意味で、ベトナム戦争は全民族・全国民レベルの戦争であったと言えよう。日本の近代に行われた戦争のように、男性兵士主体の戦いではなく、男女の兵士が労働しつつ戦闘に参加するなら、敵であるフランス・アメリカにとっては、自国兵士以外はすべて敵だと判断するほかなく、「人民の海」の中で、孤立するほかなかったのであろう。そこで、アメリカ兵が語ったという「良いベトナム人とは死んだベトナム人である」という言葉が思い起こされる。そうだ、性別を問わず、味方と思っていた人々も本当に味方か否かがわからない状態は、混乱・錯乱に陥れられるしかない。女性たちは、民族解放戦争の中で、自ら学習し、自らの存在位置を拡大し、存在そのものを高めていったのではなかろうか。

 2つ目の感想。同書に、ヴォー・ティ・サウのことが紹介されている(同書166頁)。サウの墓については、筆者が記している本会ホームページの「コンダオ群島(コンソン島)訪問記 ~もう一度ベトナム戦争を考える旅~」に掲載した写真2であるが、コンダオ島で女性政治犯がどれだけひどい辱めを受けたのかについても記されているので、読んでいただきたい。先に女性は兵士として勇敢に戦ったと記したが、彼女たちが捕らえられ、政治犯として監獄に収容されると、弾圧する側(敵としての男性)は、途端に彼女たちの女性性を辱めの材料として弄ぶのである。軍隊の「男性性」についても本ホームページで「ソンミ村虐殺事件に関して」で若干述べたが、根深い問題として考える必要があるだろう。



第3の書籍は、『ベトナムの働く女性』((財)アジア女性交流・研究フォーラム発行、1998年)である。この本では、平等に見えるベトナムの女性の社会的地位がさほど高いものではなく、儒教的な伝統がしつこく生きており、それが今なお影響を及ぼしていることが明らかにされている。特に、この本で扱われているデータはホーチミン市の縫製工場で働く女性移住労働者の調査からとられており、時期は少し前のこととなるが、女性労働者がどのような条件で働き、どのように自らの労働や社会を理解しているかがわかり貴重なものある。筆者の冒頭の論文でも同書から学び、引用した。

 第4の書籍。これも拙稿で引用したが、ベトナム女性連合著『ベトナムの女性』((財)アジア女性交流・研究フォーラム発行、2000年)である。こちらは、ベトナムの女性全般のデータを紹介しており、女性に対する施策についても詳述している。教育の実態についても記しており、小学校でも女性の方が中途退学者がやや高い(同書41頁)ことについても記している。

 第5の書籍。これは英語版で、筆者はベトナムの本屋で購入したものである。出版事情が日本とは異なるベトナムで、現在購入可能か否かは不明である。著者は、LE THI(DUONG THI THOA)。女性の研究者で、哲学の教授で、1987~95年までは家族・女性学研究所の責任者であり、1990~97年にかけては、『女性学(雑誌)』と『今日の家族(月刊誌)』の主任編集者であった。その彼女が著した本が『Single Women』(世界出版社=THE GIOI PUBLISHERS、2006年)である。内容を翻訳して読んだわけではないが、本書の章立てだけを紹介すると以下のとおりである。全部で4章立てとなっていて、

第1章は「Social Factors Leading to Women’s Singlehood in Viet Nam: History and Present」。第2章は、「The Real Lives of Single Women: Their Circumstances, Feelings and Aspirations」。第3章は、「Support for Single Women from The Family, The Community and The State」。そして第4章(最終章)は、「Conclusion」からなっている。価格は9万ドンのラベルが貼ってあるので、その値段でハノイの本屋で購入したと記憶している。

最後の書籍も含め、ベトナムの女性(女性史を含め)についての研究は次第に盛んになってきているように思われるが、これからは、ベトナム女性連合会が著した『ベトナムの女性』や、『ベトナムの働く女性』のように、きちんとした調査に基づく研究が進められるべきであろう。もちろん、ベトナムにとってベトナム共産党(インドシナ共産党・ベトナム労働党時代を含め)の影響力は大きいが、社会主義=男女平等であった。あるいは、男女平等であるべきだ、という「神話」から抜け出して、丁寧な研究がなされる必要があるだろう。



 第十六回 改めてベトナムの歴史を考えるために



 ベトナム関係の書籍が発行されていなかったわけではないが、ベトナム以外の国々について知ることが必要だったために、このコーナーで取り上げるべき書籍を購入し読むことができなかった。そして久しぶりに2冊の本を購入・読了できた。



 まず1冊目。白石昌也『日本をめざしたベトナムの英雄と皇子――ファンボイ・チャウとクオンデ――』(彩流社、2012年4月)。ベトナムの歴史をある程度理解している人ならお馴染みの人物の評伝である。私は、この本をベトナム史の研究者である白石氏が著したという理由で購入した。さてその評価というか、感想は。大先輩にあたるはずの白石氏にはいさかか失礼な言い方かも知れないが、「かなりいけてる!これだけ、わかりやすく書けたものだ」というものである。そういうにはそういうだけの理由がある。というのも、本書のエピローグ(あとがき)に記されていることだが、出版社の編集部員から白石氏が依頼を受けたのは、「高校に入りたての読者を想定して、ともかく分かりやすく書いてください」というものだったからである。これは研究者にとってはかなりきつい要求である。大人(成人)を読者として想定する新書でも書くことはかなり難しいはずである。それを年齢の若い人たち向きに書くことは抵抗があるだろう。白石氏も正直にそのことを記しながら、結局、大学時代の恩師の言葉、「難しいことを難しく書くのは、誰にだってできる。易しいことをさも難しそうに書くのは愚の骨頂だ。研究者として心がけるべきは、難しいことをいかに平易な文章で表現するかだ」を思い起こし、本書の執筆をされたとある。

 考えて欲しい。対象にする人物が誰にも良く知られた偉人というならまだ理解できる。ちまたには、子ども向けの偉人伝の類はたくさん出版されている。例えばキュリー夫人だとか野口英世とかがそれで、子ども向きだからといって決して程度の低いものではない。しかし、ファンボイ・チャウやクオンデはそうしたメジャーな人物ではない。ホー・チ・ミンは知っていても、チャウやクオンデは知らない人の方が多い。そうした人物を取り上げて、若者向けに出版する。出版社の並々ならぬ決意を感じざるを得ない。しかも、こうも記されている。「15歳からの伝記で知るアジアの近現代史シリーズ」とあり、「欧米中心の偉人伝とは第一線を画す、アジアの伝記シリーズ。本シリーズは、その国の歴史でヒーローをして扱われる抗日派だけではなく、『親日』とみなされてきた人々も積極的に取り上げる。(以下略)」と続く。宣伝文やキャッチコピーにいちいち感動する必要もないが、従来にはない偉人伝のシリーズを刊行していく決意が読み取れよう。

 読後の感想は、やはり書き手がすごいといいものができるというのが素直な感想である。白石氏は政治思想史のジャンルの研究をされていることも説明されながら、自分が発表された研究論文も紹介されている。偉人伝あるいは個人の思想史を丁寧に追う作業だけでもかなりしんどいものである。私自身も修士論文で堺利彦の思想を扱ったからよくわかる。メジャーでないベトナムの思想家(儒者)と皇子を紹介していくことは大変なことであっただろうと推測する。私は子ども向きではあるが、決してレベルが低くなく名著であると思う中江兆民の伝記、なだいなだ『TN君の伝記』(福音館文庫)を想起させられた。

 折から、日本ベトナム友好協会発行の機関紙『日本とベトナム』第673号(2012年4月15日号)には、「3月25日、フエ市ファンボイチャウ記念館にあった大きなチャウ像がフォン川沿いのファンボイチャウ公演に移転されました。(以下略)」と写真入りで紹介されている。私も行ったことがある記念館にあったあのばかでかいチャウの顔の像は移転したのである。行く機会があれば是非フエのチャウ記念館、今回できた公園にも行かれることをお勧めする。

2冊目は枯葉剤関係の書籍である。細谷久美子『枯れ葉剤に遭った子どもたち――私のベトナム日誌15年――』(同時代社、2011年11月)。こちらは私(私たち)にとっては御馴染みのテーマを扱った書籍である。今もなお枯葉剤被害で障害をもつ子どもたちの被害は続いている。本書は枯葉剤被害者の調査を丹念に記しているものである。枯葉剤被害で苦しむベトナムの人々への関わり方は色々あっていいと思うし、どの関わり方が良いのか悪いのかは言えないが、細谷氏も記しているように、「ベトナム側からは口を開くと『援助を願う』『援助はできるのか』という言葉が出る。援助されてアタリマエという意識になりきっては、私たちがこの事業をスタートさせた意味が薄れてくるような感じがしないでもない(以下略)」(同書232頁)という問題がつきまとう。無論、金銭面での支援が悪いとは言い切れないし、否定もしないが、こうした金銭的な支援を続けることをどう反省的に捉えるかということも考えられるべきではないだろうか。しかもベトナムはすでに開発途上国ではないという現実に立って何が新たに求められるのか、新たな交流・関係はいかになされるべきかを考える必要があろう。

   
 第十七回 部厚い本3冊



 この間たて続けに本屋でベトナム関係の本を購入した。かなり値段もはり、筆者の乏しい小遣い(その大半は書籍代に消える)ではこの3冊を衝動買いするのはためらった。しかも、部厚い。



 その3冊のうちの1冊目。『コレクション 戦争×(と)文学2 ベトナム戦争』(集英社、2012年4月)がそれ。このシリーズは新しい戦争文学(ルポも含み)を取り上げて刊行されたもので、かなり気合の入ったシリーズの内の1冊である。うまい喩えとは言えないが、読み進める内に、筆者が抱いたイメージは「海鮮丼」。うまくイメージが伝わるか疑問だが、ともかくうまい魚の刺身、いくらなどの卵類、貝の刺身などがこれ見よがしに乗せられている。「さぁ~どこからでも喰え」といった感じなのである。取り上げられた作品は、16。

ルポを含む文学小作品から、岡村昭彦、石川文洋らの作品群。ついで、中上健次らの作品と次から次へと並べたてられていて、休む暇を与えない。そして、奥泉光の解説。私の間違いでなければ、たしか奥泉は、柄谷行人の『「世界史の構造」を読む』(インズクリプト、2011年10月)で島田雅彦と共に柄谷と「交換様式論の射程」という対談をしている人物。

その彼、奥泉が「解説 これから『知ら』れる戦争」を記している。その冒頭は、村上龍の「地獄の黙示録」(前掲書に掲載されている作品)の一部「私達はベトナム戦争について、何も知らない。」を引用して解説がはじまっている。そうだ!私たちはベトナム戦争中にベトナムに行った人々でない限り、後付けの理解しかできないし、知らないのである。

 しかし、想像で作られた文学作品であっても(逆に想像を交えて作られたからこそ)当時のことを理解できる作品もあるように思われる。例えば、中上健次の「日本語について」は、前掲書の中ではずいぶんページを割いて掲載された作品である。ベ平連のではないが、当時の学生反戦団体(架空の)の米兵脱走(出征拒否)闘争をテーマにしたものである。おそらく運動はこんなに簡単ではなく、薄っぺらなものではなかっただろうが、扱ったテーマとしては面白く、中上の作品を知らなかった私にすれば、読ませる作品だった。

 同じ米兵脱走について堀田善衛も「名を削る青年」で扱っているが。こちらは、米兵の出自をより複雑にしたもので、考えさせられる。こういう人物が実際米兵にいても不思議ではない。

 さらに、小田実の「戦争」。このコーナーでも取り上げたバオ・ニンの『戦争の悲しみ』についてかなり詳しく解説をしている。私はバオ・ニンから読んだが、小田のこの文からバオ・ニンの小説を読む人がいれば、とも思う。

 入り口はどこからでも良い。ベトナム戦争を知ろうとして欲しい。てんこ盛りには訳があり、プライドがある。



2冊目以降は、同じ著者の本である。元日本経済新聞の記者だった牧久の著した本。刊行された年次でなく、読了した(購入の早いもの)順にあげると、まず『「安南王国」の夢』(ウェッジ、2012年2月)。先の『コレクション 戦争×(と)文学2 ベトナム戦争』と同じ日に同じ本屋で見つけ、部厚くて結構値段のはる本2冊を買うか否か考えた上で買い求めた。

 この本は、前回取り上げた白石昌也『日本をめざしたベトナムの英雄と皇子』とテーマはほぼ同じ。クオン・デについてその生涯を丁寧に追いながら、彼と関係する日本人を追っている。具体的には「大南公司」というベトナムで、今で言う総合商社を営んでいた松下光広という日本人を取り上げている。フランスとベトナムとの戦いの間、あるいは日本がベトナムを支配下に置いた期間を含めアメリカとの間のベトナム戦争期間中、松下はベトナムで商取引を行い、現地の人々から信用され、手堅く商売をしていたのである。その松下は、クオン・デの存命中は物心共に様々な援助を行い、1975年4月30日のベトナム解放時、サイゴンに残留し「サイゴン郊外のビエンホアにある日本の支援でつくられた孤児院」で子どもたちと一緒にいたのだった。

 その後松下はベトナムで築いた地位、ベトナムの家屋、会社などの建物をすべて捨てて帰国しなければならなかった。ベトナム戦争中といえども、新聞記者・フォトジャーナリストたちだけがベトナムにいたわけではない。松下のような企業家や、元日本軍兵士で、ベトナム人女性と結婚して生活していた人々もいた。考えてみれば当たり前のことであり、様々な仕事を持った人たちがベトナムで生活していたのである。そのことを私たちは気づいていないだけのことである。

 ところで、彼松下光広は、大川周明とも交流があった人物として紹介されている。といって、松下を右翼ナショナリストと決めつけることもできないようだ。そもそも大川を簡単に右翼、ナショナリスト、ファシストと決めつけることが可能かどうか、ここから考えるべきかも知れない。戦犯の容疑者でありながら、精神病を患っているとして、容疑者リストからはずされたことを含め、大川という人物も簡単なレッテル張りですませる人物ではなさそうである。しかも、彼(彼ら)が戦時期を含め盛んに説いていた「大アジア主義」は、どれほどの真実性があったものなのだろうか。単なる日本のアジア侵略のイデオロギーとして捨て去っていいものかどうなのかも改めて考えなければならないだろう。



 最後の1冊。同じく牧久の『サイゴンの火焔樹』(ウェッジ、2009年5月)。先の『「安南王国」の夢』の巻末にこの本の紹介がされていて、本屋で探すとすぐに購入できたので、読了した。こちらはベトナム戦争終了時(1975年4月30日)をはさんで、戦争終了後もベトナムに留まり、取材を続けていた牧の取材記録をもとにしたものである。南北に分断していた国家(2つの国家)がどのように統一されていくのか、その際の軋み・歪み・対立・怨念などがどう現れるのかがわかる。一口に「国家の統一」と言っても本当の意味での統一はなかなか難しいものである。同じ民族が2カ国に分かれ戦争を続けていたのだから。現時点でも朝鮮・韓国の問題として考える必要があろう。ベトナムの場合は、社会主義側が勝利したのである。20世紀では、「社会主義」が「想像の共同体」(ベネデイクト・アンダーソン)を喚起し、国民を引きつけたのであった。果たしてその「社会主義」を「マルクス・レーニン主義」と同じものと言って良いものかどうかである。「ホーチミン思想」という言い方に変わってきているそれは、「社会主義」と表現して良いものか、考えさせれる。


 第十八回 ベトナムの海で死んだ日本兵    (2012年)



 今回取り上げる本は、中元輝夫『海に墓標を』(文芸社、2011年12月)である。筆者は、著者本人からこの本を購入した。中元氏は日本ベトナム友好協会の岡山県支部の会員である。この本の広告は、2度ばかり某党機関紙にも宣伝がなされていたと記憶するし、岡山県で開かれた日本ベトナム友好協会全国総会で、おおよそのあらましをお話されていた記憶がある。

 さて今回は、中元氏の著作についての感想(書評というほど優れたことを筆者が書くことができない)と、筆者の体験(経験)のようなものを織り交ぜて記すことにしたい。本書のテーマは、あのアジア太平洋戦争で徴兵され、戦死した中元氏の父はどこで戦死したのか、ということに尽きる。まさに執念と言い方が失礼であることを承知しつつも、「執念の追跡」で戦死した場所をつきとめ、亡き父の供養を行い、長い長い追求の旅が終わると同時に、新たなものが見え、学び直し、本書を著したと言えよう。

 中元氏の父の死が伝えられたのは1945年8月31日。父の遺骨箱に入っていたものは、父の遺骨ではなく、石ころと黒い炭のような物だけだった。戦死公報には「<比島方面ニニテ戦闘ニ於イテ戦死ス>」と記されていた。父の死だけではない。気丈夫で子どもたちを育てていた母が1947年3月に亡くなってしまう。残されたのは子どもたち6人。完全に孤児たちの集団となってしまったのである。下の1年生の弟だけは母方の祖父の家に引き取られ、残りの子どもたちだけでの生活。農業を子どもたちだけで行う。どれほどの苦労があっただろう。野坂昭如の『ホタルの墓』は兄と妹の2人が孤児となり死んでいく様子が描かれているが、子どもたちだけで生活することが如何に難しいことだったかは想像を絶することである。孤児になった子ども、学童集団疎開に行った子ども、空襲で傷ついた子ども、戦争は弱い存在である子どもたちを不幸にする。

 しかも目を凝らせば、戦争に参加した子どももいたことを忘れてはいけない。学校を通じ満蒙青少年義勇軍に加わり、満蒙とよばれた地域に送られ、捨て去られ、命からがら帰国できた子どもはまだマシであった。また、筆者がかつて取り上げた海軍特別年少兵(特年兵)の存在など。こうした戦争と子ども、戦時下の子どもというやや大きな範疇で捉えないと子どもを取り巻く実態は見えないだろう。

 中元氏は働きはじめ、労働運動に加わった理由で、会社側から危険人物とされ、12年もの間、差別され、攻撃されるがその戦いにも勝利した人物でもあった。その戦いの中でも氏は父の死を忘れることがなかったようである。そして1982年4月の交通事故。オートバイで政党機関紙を配達中に大事故に巻き込まれたのである。病院で瀕死の状態で横たわっていた際に父の姿を見る。そこから父の死を探る旅が本格化する。父が「船舶砲兵」であった事実。父の死んだ正確な場所(東経109度08分、北緯15度11分。仏領印度支那「バタンガン」岬南東45里沖)の確認。正確な戦死場所の特定すら、明らかにしない日本国政府。中元氏は探し出すことができたが、依然として行方知らず、未だ戦死の場所すら特定できない人たちの多さ。

 筆者の亡くなった姉・兄の父は、私の父とは違う。彼らの父は、東洋拓殖会社という国策会社の系列であった満蒙毛織という会社の社員で、彼ら2人はいわゆる満州で生まれた。彼らの父は、ソ連軍の侵入と関東軍の崩壊の際、社員でありながら、ソ連軍の阻止のために戦闘に参加し、どこで死んだのかもわからない。しかも軍人ではなかった人間の死など「軽い」ものでしかなかった。筆者の姉・兄も父の姿を追い求めていたのだろうか。しかし、姉はともあれ兄は1945年3月生まれ。父の記憶すらなかっただろうが。

 中元氏のベトナムでの慰霊の旅の成功については、本書をお読みいただきたい。不思議な人々の縁(仏教では「ご縁」というのだが)で日本人のみならずベトナムの人々が結びつき、氏の父が亡くなった海上でその冥福を祈ることができたのであった。

 本書後半で、日本軍による200万人餓死について触れているが、もし機会があれば、ハノイにある供養のための記念碑がある場所(本ホームページ「ベトナム入門第2回・第3回」参照のこと)に行かれることを勧める。人数が200万かそれよりも少ないのかという例の「死者の人数」問題を抜きに、日本軍の侵略でベトナムの人が餓死したことは事実であり、そのことを考えないといけないだろう。

 ベトナムで兵士として死んだ兵士は一体どれくらいいるのだろう。彼らはガタルカナルでの「戦死者」のように「餓死」した人もあったのだろうか。日本陸軍の兵士の死亡原因は藤原彰氏が明にしたように「餓死=飢え死にした」兵士だったのである(『餓死(うえじに)した英霊たち』、青木書店、2001年5月参照)。

父の死を訪ねることから、中元氏は様々な出会い、戦死が国家による構造的で強制的な死であることを理解されたと思う。再び戦死者を生み出さない国にしなければなるまい。

 第十九回  中所得国(中進国)ベトナムの姿を多面的にとらえる

 

 今回は、2012年に【第2版】として改訂された『現代ベトナムを知るための60章』(明石書店)を紹介する。今回の改訂は、2004年に刊行された同名の書籍の内容刷新(一新)が第2版刊行の狙いである。しかも、編者たち(今井昭夫・岩井美佐紀)は「はじめに」で、 同書が日本人に対する異文化理解を促すだけでなく、外国人(日本人)研究者が外側からベトナムをとらえ、その研究成果をベトナムに利用されるように努める という「地域貢献」のために、同書を刊行したのだと述べている。

 今回の改訂で大幅な変更が見られる箇所は、「Ⅲ『公平・民主・文明的な社会』を目指して」と「Ⅵ『工業化・現代化』への道」である。もちろんそれ以外のところでも変更されているが、特に目立つのが上記のⅢとⅥである。ちなみに、まず、Ⅲについて2004年版と比較するために、各章のタイトルを記してみると以下のようになる。

2004年版

2012年版

Ⅲ―第21章 人口動態・人口分布

Ⅲ―第21章 階層

Ⅲ―第22章 階層分化

Ⅲ―第22章 カィンハウ

Ⅲ―第23章 地域間格差

Ⅲ―第23章 社会移動

Ⅲ―第24章 移住・移動

Ⅲ―第24章 都市生活

Ⅲ―第25章 都市化

Ⅲ―第25章 家族

Ⅲ―第26章 ベトナムの家族、親族、家譜

Ⅲ―第26章 ジェンダー

Ⅲ―第27章 ジェンダー

Ⅲ―第27章 ライフスタイルの変化

Ⅲ―第28章 ヘルスケアー

Ⅲ―第28章 福祉

Ⅲ―第29章 社会保障

Ⅲ―第29章 教育

Ⅲ―第30章 教育

Ⅲ―第30章 汚職・腐敗

Ⅲ―第31章 社会悪

 

コラム5 恋愛・結婚事情

コラム5 国際結婚

コラム6 ベトナムの子ども

コラム6 おしん

 上記のことからも理解できるように、2010年以後の現在のベトナムの実態が理解できるように改められていることが理解できるであろう。さらに、Ⅵについても同様に両者を対比するために表を記すと以下のようになる。

2004年版

2012年版

Ⅵ―第51章 社会主義市場経済

Ⅵ―第51章 ベトナム経済の現代史

Ⅵ―第52章 全方位外交

Ⅵ―第52章 ベトナムの企業

Ⅵ―第53章 貿易構造の多角化

Ⅵ―第53章 対外貿易

Ⅵ―第54章 成長の主軸・外国企業

Ⅵ―第54章 工業化

Ⅵ―第55章 農業国としてのベトナム

Ⅵ―第55章 農業

Ⅵ―第56章 「工業化」

Ⅵ―第56章 ベトナムのインフラ事情

Ⅵ―第57章 金融・証券市場

Ⅵ―第57章 労働市場

Ⅵ―第58章 交通運輸・通信

Ⅵ―第58章 証券市場

Ⅵ―第59章 豊富で優秀な労働資源

Ⅵ―第59章 海外直接投資

Ⅵ―第60章 消費性向

Ⅵ―第60章 小売・流通の発展

コラム11 あるベトナム人の家計

コラム11 ベトナムで浸透し始めた日本食とビジネスチャンス

コラム12 新しい企業家

コラム12 工業団地労働者の生活

 ここでも、2007年のWTO加盟後、経済発展が著しいベトナムの「生」の姿がとらえられるように工夫がされていることが理解できよう。

 編者らも記しているとおり、「エリア・スタディーズ」としてのベトナム入門書としては、記述もコンパクトであり、内容も新しいものであり、十分読み応えがあるものだと考える。また、本書(2004年版でも同様であるが)には巻末にベトナムの略年表と参考文献一覧が記されている。読者は、歴史の展開を確認するだけではなく、参考文献をもとにして、より詳しくベトナムについて知る著書とめぐり合うことが可能である。

 かつての開発(発展)途上国としてのベトナムという理解や、ベトナム戦争・ベトナム反戦としての理解を改め、東南アジアの大陸部の国として成長している現在のベトナムを知るための入門書として最適な著書であろう。

 

ベトナム戦争終結40周年に寄せて――関連書籍――

 

 本年(2015年)は抗米救国戦争(いわゆるベトナム戦争)が終結(ベトナム側からすれば「勝利」)してから40年を経過した年である。そういう記念すべき年であるからという理由だけではないだろうが、少し注意してみると書店にはベトナム戦争関係の新刊書籍が置かれている。今回は、40周年記念というにはいささか遅すぎる感があるが、私がこの間に書店で購入したベトナム戦争関連の書籍を紹介することにしたい。とはいえ、その内の1冊は、すでに「古典」ともよぶべき本であり、場合によれば、古書店などで探す方が購入しやすい本であるかも知れないので、あらかじめご了承願いたい。

 

 まず古書店で探した方が早いと思われる本が、ヴォー・グエン・ザップの名著である『人民の戦争・人民の軍隊』(中公文庫)である。ここで扱われているベトナム戦争は、抗米救国戦争ではなく、第1次インドシナ戦争(抗仏戦争)である。思えば、ベトナムはアメリカと戦う以前にフランスそして日本と戦ったのである。この時点ですでに「ゲリラ戦」を行うことを明らかにしている。すなわち、

  ヴェトナムにおける長期人民戦争は、また適切な戦争形態を必要とした。適切な戦争形態とは、すなわち、戦争の革命的性質に対しても適切で、敵の圧倒的優位が見られた当時の勢力の釣り合いに対しても適切で、人民軍の未だ極めて脆弱な物質的・経済的基礎に対しても適切である戦争形態を意味する。そこで適合する戦争形態は、゙ゲリラ戦であった。(同書21ページ)

と述べている。その上で、ベトナム人民軍は「民族の軍隊」であり、「民主的軍隊」であり、

「人民の軍隊」である(同書28ページ)とその性格を規定している。より具体的には、

  ――人民を尊敬し、――人民を援助し、――人民を守る…‥(中略)

  軍は常に、生産活動や、洪水、干魃(かんばつ)との闘いで、農民を助けるための日課を計画し、実行した。軍はまた、人民との関係において、常に正しい態度を守った。針一本、糸の端すらも、人民の財産を害するようなことは決してなかった。(同32ページ)

と述べられている。確かにベトナム人民軍は、ほとんど例外的に女性(女性兵士・庶民の

女性に関わらず)に対して強姦(レイプ)をしなかったとされる(一部の問題については、

レ・カオ・ダイ『ホーチミン・ルート従軍記』に少数民族の女性についての扱いについて述べている―本コーナーの同書紹介文を参照のこと)。

 このように人民に依拠してゲリラ戦を戦う必要があった理由は、当時のベトナムが農業国であったことによる。もちろん、工業(軽工業)が全くなかったとは言わないが、依然として農業国であり、農民(民衆)の中(民衆の大海)に紛れながら、民衆と共に戦うゲリラ戦しか方法がなかったと考えられる。ゲリラ戦を基本としながら、人民軍を成長させつつ、フランス軍を撃退したディエン・ビエン・フーの戦い(1954年)に勝利したのであった。

 グエン・ザップ将軍は、第1次インドシナ戦争(抗仏戦争)・第2次インドシナ戦争(抗米救国戦争)を指導し、201310月4日死去した。なんと102歳の長寿を全うしたのである。アメリカとの戦い、いわゆるベトナム戦争について扱った著作が、ヴォー・グエン・ザップ『愛国とは何か』(京都大学学術出版会)である。ここでは、ディエン・ビエン・フーの戦い後のアメリカとの戦争、1975年4月30日の南ベトナム解放までの様子が記されている。特にアメリカが戦闘の前面に立たなくなって以後の南ベトナム政府軍との戦闘の様子がベトナム人民軍側から述べられている。南ベトナム政府軍はどれだけの兵力で立ち向かってくるのか、アメリカはもう一度直接戦争に介入してくるのか、といった難しい判断を行いながら、北緯17度線(南北ベトナムを分断した「国境」)を越えて南に向け、人民軍を送っていく様子が詳細に記されている。次第に南ベトナム政府軍を抑えつつ、サイゴン(現在のホーチミン市)包囲作戦を進め、1975年4月14日、レ・ズアン(第一書記)が「政治局を代表して声明を発表した。『サイゴン作戦は今後ホーチミン作戦と呼ぶことに意見が一致した』」(同書269ページ)のである。

 陸上での戦いだけでなく、人民軍は海上に対する対応も忘れていなかったことを知る必要がある。同書第8章は「チュオンサ島嶼の解放」と題する章であるが、現在中国との関係で取り上げられている島々についての対応も忘れていない。チュオンサとは南沙諸島のことである。ホーチミン作戦(サイゴン包囲作戦)と並行してグエン・ザップは「一九七五年四月二日、…‥レ・チョン・タンに指令を出した。命令を第五軍区と海軍司令部に伝えること、さらに、彼に言った、島々解放の攻撃を組織せよ、第一の目標はチュオンサ(シプラットリー)島嶼だ。第七艦隊の軍艦や他国の軍艦もこの海域で行動している可能性がある。南ベトナム海軍は大きな艦船を持っている。したがって戦闘法は、断固として、迅速に、非常に賢明に、創造的に、かつ秘密保持を旨とせねばならぬ」(同書287ページ)とあり、さらに「これは重大な任務だった、なぜならチュオンサ島嶼はヴェトナム領なのだから。探査事業はここに膨大な石油埋蔵量があることを示していた」(同書288ページ)と記すことを忘れていない。

 ホーチミン作戦は、重要目標として5つの場所を狙った。すなわち、「タンソンニャット飛行場、南ベトナム軍総参謀部、大統領宮殿、首都圏特別司令部、そして国家警察本部」(同書310ページ)である。南ベトナム政府と軍の中枢部に対して総攻撃をかけることが明らかにされたのである。1975年4月30日ついに南ベトナムが解放された。ハノイにいたグエン・ザップは、同日午前10時に「七〇課主任グエン・タインが受け取ったばかりの報告」を読むことになる。それは「日本のラジオ放送によると南の解放軍が戦車を先頭にしてサイゴンに入りつつある」ということであり、その後「一〇時五〇分、第二局はわが方部隊がサイゴンの大統領宮殿に入った報告した。まさに同時に西側各放送局が同じニュースを報じた」(同書324325ページ)。

 サイゴン陥落(サイゴン解放)だけではなかった。5月初頭、「総参謀部はまた、メコンデルタ、コンソン島そしてフーコック島の敵部隊をどう処理するか、戻ってくる政治的抑留者をどう受け入れるか注意が必要だ」(同書327ページ)とも記している。続けて「一九七五年四月三〇日と五月一日、南ヴェトナム勢力がコンソン島に抑留していた革命家たちが蜂起し、監獄を破り、島を解放した。政治犯として抑留されていた人々と連携してフーコック島の地方軍が地域に攻撃をかけ、本土からわが方兵力が到着する前に解放した。一九七五年五月二日南ヴェトナム全土から残存敵兵力は消えた」(同書330ページ)と記されている。

 戦争の全責任者である人だから当然のことと言えば簡単だが、戦争は単に勝ち負けだけではないことが了解される。戦争終了後の領土問題、政治犯釈放の問題などすべての事柄に目を向け、指示命令を下す。戦争はまさに政治(国際政治を含め)の延長線上にある。指揮官はここまで配慮した戦いを進める必要がある。

 なお、グエン・ザップの戦いすべてについては、同書の「解題」に詳述されている。これを読めば、彼が人民軍の将軍としていかに戦いをリードしていったかがわかるだけでなく、政治家として優れた人物であったかが理解できるだろう。

 

 3冊目は、ホーチミン作戦の実施されている中のサイゴンの状況を伝えた著書、近藤紘一『サイゴンのいちばん長い日』(文春文庫)である。この本はすでに「古典」として扱って良いくらいのもので、197510月に単行本として発表され、文春文庫の第1刷は1985年4月であるから、もうすでにかなり良く知られた本である。しかも、著者は1986年亡くなっており、最初の妻が亡くなった後、再婚したベトナム人の妻と娘についても有名である。それら近藤氏の個人的なことはともかくとして、この本は、今述べたとおり、1975年4月30日のサイゴン陥落(サイゴン解放)の状況を、サイゴンで取材することが可能だったジャーナリストとしてその記録を克明に記したものである。

サイゴンに人民軍(北ベトナム正規軍)が入ってくる直前の4月15日、南ベトナム出身の妻をやっとのことで東京に送った後、近藤は取材を続ける。南ベトナム政府軍の敗退、特にダナン敗北の様子は生々しい。

  とくにダナン港からの逃避は混乱と凄惨を極めた。指揮官を失った兵士らの掠奪、暴

  行、同士討ち。北・革命政府軍の無差別砲火。夜、ハシケに潜んでの暗闇の海への脱

  走。恐怖にかられた群衆で地獄絵図化した波止場。踏み殺され、射殺された女子供や

老人――。(同書22ページ)

とあるように、戦闘は単に南北両政府軍同士の戦いだけでなく、味方同士の争いでもあった。その後、刻々と人民軍はサイゴン中心部に近づいてきた。4月26日の情景。

  スアンロクを抜いた北・革命軍は、いよいよ本格的な首都包囲網の確立に乗り出し、国道十五線沿い、首都から一番近いロンタンの町もすでに戦車隊に制圧されている。

  (同書109ページ)

 日本人ジャーナリストたちは、在サイゴン日本大使館に避難し、そこで取材を続けてい

た。近藤は、サンケイ新聞本社から何度も帰国を命じられながらも無視し、同日サイゴン残留を決意した。「町の上層部のパニックはもう頂点に近い」(同書113ページ)と同日の状況を記しながらも、庶民の生活はいつもどおりだった。

  人びとはまったく、ふだんの調子でソバ(おそらくフォーのこと―向井注)をすすり、オヤツを物色し、悠々と談笑に興じている。一方では極度のパニック、その半面でのこの平然としたひととき、なんともチグハグでわけがわからない。(同書114ページ)。

 近藤はこの後大使館を出て、市内のカラベルホテルに部屋を借り、取材を続けた。翌27日の様子。「河畔のマジェスチック・ホテルにロケット砲弾が命中し、六階の食堂がやられたという」(同書116ページ)。事態はより深刻さを増すが、それでも「やはり、私は見たかった。今、まちがいなく一つの国の崩壊が目前に迫っている。多少の危険はあっても、絶対にそれを見とどけてやろう」(同書118ページ)とあるように、記者魂に火がついた。

 4月28日にはついに、人民軍により首都空襲が実施された。当初それは「グエン・カオ・キ将軍配下の空軍タカ派が、北・革命政府軍との妥協をめざすミン新大統領に対してクーデターに出たのか」(同書126ページ)と思われたが、後に「北・革命政府軍によるサイゴン側への初の゛空からの警告″であったことが」(同書128ページ)わかった。「長く(サイゴン―引者注)政府空軍将校になりすましていた工作分子」(同前)がパイロットだったのである。

4月29日、近藤らは日本大使館から退避勧告を受け、指定された場所に集合したものの、集合場所に来るはずのバスは来ず、米軍が救出のために送ったヘリコプターは一機が着陸したが、すぐ飛び立ち、近藤たちは救出されることがないまま日本大使館に籠城することになった。すでにタンソンニュット飛行場は砲弾を撃ち込まれ炎上していたのである。

 そして運命の日、4月30日。「ようすがおかしくなりはじめたのは午前八時頃からだった」(同書154ページ)という。十時二十分、ミン大統領の一方的停戦宣言がラジオを通じて報道され、「ついに全面降伏――。サイゴンは崩壊した」(同書160ページ)。そして「正午ちょうどに、北・革命政府軍の戦車隊が、正門を大きく開け放って待っていた大統領官邸の構内に突入した、との一報が外部からの電話で入った」(同書163ページ)。同日午後、「国防省に留まった一部の旧政府軍将兵が武装解除に反対して、最後の抵抗をこころみ」(同書174ページ)たが、すぐに終了し、静かな夜を迎えた。

 その後、近藤は5月24日まで、サイゴンとその近隣での取材を続け、同日帰国した。この間の中国人街チョロンの様子、近藤が助手としていたベトナム人のタンが実は「ハノイの指令で北に移住した」(同書265ページ)家族を持つ人物――つまり北側の人物――であったことや、サイゴン近隣の村に行き、旧政府軍がどのように敗北を遂げたのかを取材した様子などが記されているが、それらについては直接、同書を読んでもらうことにする。

 

 4冊目は京楽真帆子『英雄になった母親戦士』(有志舎)である。タイトルからもわかるようにベトナム戦争時に母親であり女性兵士として戦った人たちのことを扱った著作である。同書でも触れられているが、ベトナム戦争時の母親兵士と言えば筆者はいわさきちひろの絵が挿入されている『母さんはおるす』(新日本出版)を思い起こす。同書はベトナム語で書かれたものを翻訳したものだが、いわさきちひろ挿絵が入ったベトナム語の絵本をハノイで手に入れ、今は亡くなった日本人女性教員(JICAの協力メンバーとしてハノイで障害児教員の養成に尽力されていた)に差し上げたことを思い出す。

 あるいは、母親でないが女性兵士というと、本コーナーでも取り上げた『トゥイーの日記』もベトナム戦争を戦った女性兵士の話である。先のグエン・ザップの著作に関係していうとゲリラ戦は、人民に依拠し、年齢・性別に関係なく戦争に参加したのである。その彼女たちが戦後「烈士の母」として顕彰され、現在どのような生活をしているかをヒアリングによって明らかにしたものである。なかでも「コンダオ刑務所と戦争顕彰」の章は筆者も本ホームページで現地に行った際のことを記している。そこにも記したが、ほぼ同じヒアリングや刑務所見学をしているし、同書で扱っているグエン・ティ・クエさんは、本ホームページの「ベトナム入門」で記しているグエン・クエさんと同一人物のように思われる。

 

 5冊目は、『ある反戦ベトナム帰還兵の回想』(刀水書房)である。本書は、現在私立男子校(ハバフォード・スクール)で英語と歴史を教えているWDエアハートの回想記録である。帰還兵については、筆者も本コーナーで『ネルソンさんあなたは人を殺しましたか?』を取り上げたことがあるが、エアハートもベトナム帰還兵としての体験を率直に語っている。彼は海兵隊に志願し、海兵隊員としてベトナムの戦場で戦闘に参加した。この点でも、先のネルソンと同じである。ネルソンも海兵隊員であった。

エアハートは同書で、戦場で自らがどのような戦闘行為を行ったかを赤裸々に記している。「敵」であるベトナム庶民をどのように殺害したかだけでなく、仲間を含め、ベトナム人女性への強姦行為まで包み隠さず記している。例えば以下のように。

  …‥俺の番が来てかの女の上に乗った。冷たく、身動きもせずに、恐怖と憎しみと空

  腹の塊だった。確かに、かの女にとっては死んだも同然、魂の抜け殻のようだった。

俺たちはCレイション[米軍C号携帯食]で支払った。かの女は売春婦ではなかったと

思う…‥ただ空腹で、恐らく何人も子どもを抱えていたんだろう…‥(同書87ページ)

 

その後エアハートは戦闘で負傷することなく海兵隊軍曹としての兵役期間を終え、1969年秋、スワモア大学に入学する。その時彼はすでに21歳になっていた。同書は学生時代の彼の生活を主題にしつつも、随所でベトナムでの戦闘体験が記されている。学生生活自体も戦争を経験していない一般学生のように過ごせたわけではない。PTSDに苦しみ、フラッシュバックを起し、何でもないような時に交際している女性に暴力をふるってしまい、罵詈雑言を浴びせることもあった。そうした苦しみの中で、エアハートは自分の体験(海兵隊員としてのベトナムでの戦闘体験)が何だったのかを様々な書籍を読むことによって客観的に理解するようになり、次第に「反戦帰還兵」となっていく。反戦集会に参加し自らの体験を語るようになりっていく。おそらくエアハートにとって、自分が戦場で体験したことがどのような意味を持つのかを理解するために決定的な影響を与えたのは、1971年に発表された『国防総省白書』(ペンタゴン・ペーパーズ)であっただろう。これについて筆者も本ホームページの「ベトナム入門」第21回で取り上げているが、日本人である筆者とベトナムで戦闘に加わったエアハートではその受け取り方が全く異なると言うべきである。その怒りがどのようなものだったのか、エアハートは書いている。

  この裏切り者!薄汚れたろくでなしめ!傲慢な殺人鬼の嘘つき野郎ども!こいつら…  

  ‥この畜生どもめ!一週間以上ものあいだ、俺は何度もこう繰り返したが、奴らの悪

  行をぴったりと言い当てるような言葉を見つけることができなかった。海兵隊で覚え

  たわんさとある悪たれ言葉にも見つからなかった。(同書276ページ)

さらに続けて、

  間違い?ベトナムが間違いだって?冗談じゃない、調子のいい二枚舌の権力者が力ず

くでこの世界を造り替えるための計算ずくみの企てだったのさ。奴らが俺たちを道連

れに沈んでいったその奈落とは、およそ底なししか言いようのないほどの深いものだ

った。アメリカ、アメリカ、何という恥さらし。(同書277ページ)

 

俺はバカだった、無知でお人好しだった。ペテン師。そんな奴らのために、俺は殺人

者となってしまった。そんな奴らのために、おのれの名誉、自尊心、人間性まで失ってしまった。そんな奴らのために、俺は自分の命まで投げ出そうとしていたのだ。奴

らにとって俺はほんの借り物の銃、殺し屋、手下、使い捨ての道具、数のうちにも入

らない屑でしかなかった。ベトナムから戻って何年か過ぎ去り、そうした疑念は膨ら

むばかりだったが、真実がこれほど醜悪だったとは想像さえできなかった。(同書281

ページ)

 

 戦争によって死ぬことをよく「犬死」と表現するが、まさに彼と共に戦場で戦い死亡したアメリカ人兵士は「犬死」したのである。死体を入れる袋(エアハートは「グラッド社製ゴミ袋に詰め込まれて親元に返されるアメリカの若者」(同書20ページ)と記している)に詰められ、敵を殺せばその死体を「ボディーカウント[死体勘定]」(同書86ページ)するだけの無機質な戦闘。ゲリラ戦であるから一般の庶民とベトコン(南ベトナム解放民族戦線兵士)やベトナム人民軍兵士との区別もつかない。この点についてもエアハートは「ゲリラ戦争」という作品で記している。以下に引用する。

  そいつは実際、不可能でしかないさ 民間人とベトコンを区別するなんてことは。

  

誰も軍服なんて着ちゃいない。みんな同じ言葉を話している、(何もわからないだろう

  がね、もし同じ言葉でなかったとしても)。

  

  やつらは手榴弾を衣服の内側にテープでとめ、カバン爆弾を市場で使う籠に入れて運 

  ぶのさ。女でさえ戦う――少年も、少女も。

  

  そいつは実際、不可能さ 民間人と ベトコンを区別するなんて――

  

  終いには、あんたも諦めるさ。(同書ⅺ~ⅻページ)

 

 こうなると感覚そのものがマヒし、兵士は戦闘ロボット(殺人マシーン)になっていく。人間性が失われ、「それにしてもだ、夥しい数の死んだグーグ[アジア人の蔑称]のことを気にする奴なんているか?」(同書21ページ)ということとなり、ついには「良いベトナム人とは死んだベトナム人(グーグ)である」という理解につながる。アメリカはベトナムの経験を本当に学びとったのだろうか?

 

 6冊目は最新刊であろう。ニック・タース『動くものはすべて殺せ――アメリカ兵はベトナムで何をしたか――』(みすず書房、201510月1日発行)である。この本が注目されるのは、著者がジャーナリスト・歴史学者であることである。上記のエアハートの本のように兵士の体験ではなく――それはそれとして意味を持っていることは言うまでもないが――ベトナム戦争の全体的な史料に基づき叙述がなされていることが注目される。ニック・タースは、当初、ベトナム帰還兵のPTSDに関する研究で博士論文を作成する予定だった。そこで、資料集めのために、メリーランドの国立公文書館を訪れ、偶然に閲覧できた史料がベトナム戦争犯罪作業部会の記録文書であった。この史料に出会い、これを利用した研究を自分以外の誰かがするように知り合いに声をかけたが、結局は自らが研究することになってしまった。そこで、指導教員であるデイヴィッド・ロズナー教授に相談すると、教授は瞬時のうちに史料の貴重さについて気づき、「その文書が消えてしまわないうちに複写するように言い、即座に小切手にサインすると、コピー代としてタースに手渡した」(同書327頁)という。全部で9000ページにわたる史料の3分の1は何とかコピーをすることをしたという。おそらく、タースがすべての史料のコピーをした時点で、史料は翌年から「国立公開資料棚から消え失せてしまった」(同頁)という。つまり、この文書は

「消えてしまった」のである。

 その膨大な史料を丁寧に読み込み、記されたこの本は、全編凄まじいばかりの事実で覆い尽くされている。事実が淡々と記されているだけで、身の毛のよだつ、あるいは胸糞が悪くなり、時々は吐き気さえする内容が連綿と記されている。しかし、そこから目を背けることは、ベトナム戦争の事実から逃げることであり、歴史を学ぶ人間が、歴史から逃げることになることを思い知ることになる。

 ベトナム戦争には大小様々な事実があり、その事実によってベトナム戦争は構成されている。その代表的=象徴的な事件がソンミ村(ミライ村)の虐殺であった。しかし、うまい言い方はできないが、ミライで起きたような虐殺は戦争の中では、1つの事件にしか過ぎない。事件がたまたま明らかになり、問題視されてしまっただけであることをこの本で知ることができる。

 ベトナム戦争では、たくさんの村が焼き尽くされ、無抵抗の民衆(ゲリラや兵士ではない)が何の理由もなく殺害されていったし、それが普通=日常のことであった。これまでも何度もくり返し記しているように、敵か味方か、解放民族戦線(ベトコン)かそうでないかの区別などできないのである。本来はその区別をした上で戦いは行われるべきであるが、実際の戦場では到底そうした区別はできない。となれば、どうなるかは容易に理解できることである。まさにほんのタイトル通り、「動くものはすべて殺せ」ということになる。

 しかも戦闘の成果は、死者の数で決まる。ボディカウント(死者数を数えること)が多ければ成功である。相手がどのような人間であるのか――男なのか、女なのか、大人か子どもか、老人か――こうした属性すら無用となる。全くもって無機質の状態である。その数が多ければ多いほど良い。そのためには索敵殲滅活動(サーチ・アンド・デストロイ)がなされる必要がある。すべてのベトナム人を殺せ!である。たまに問題となるのは、ベトナム人女性がアメリカ兵のセックスの対象として選ばれる時である。レイプと考えられる限りの暴行。こうしてすべての戦場は無法地帯となり、あらゆる倫理・道徳は省みられることがなくなる。人を殺すことが普通(日常)となり、そうしない時は逆におかしいという恐るべき日常が続く。これで数カ月・数年の兵役が続けば、人間という名の殺人マシーンになっていく。そして兵役を終え帰還。彼らの日常は、戦場での日常ではなく、平和な生活の中での日常になる。適応できなければ、待っているのはPTSDの生活である。

 ベトナム戦争に限らず戦争とはこういうものだということを事実が示している。それから逃れる戦争は「無人兵器」を使用する新たな戦争、コンピュータ化し、殺人マシーンを使用する現在の戦争となる。戦争は倫理・道徳の極致にある。あらゆる人間を堕落させ、人間性を無くさせてしまう。それが国のためであろうとなかろうと。