第一回 ベトナム 見たこと 考えたこと
 
 ベトナムと聞いてどのようなイメージを持たれるだろうか。ベトナム戦争、ベトちゃんドクちゃん、枯葉剤、ベトナム雑貨、「アオザイ」(伝統衣装)、「生春巻き」などなど。50歳代以上の人ならベトナム反戦運動と青春時代をオーバーラップされるかもしれない。20歳代ぐらいなら、しゃれた民芸品を見つけにショッピングに出かけたい人もおおいだろう。

 はじめてベトナムを訪ねたのが1994年8月、それから15年、訪問は30回を超えた。訪問するたびに変化する新しいベトナムに気づきながら、他方で70年代の大阪のような何かしら懐かしい感じさえする。初めての訪問は、藤本文朗先生(当時滋賀大学教授、現名誉教授)に連れられて、ホーチミン市郊外に住む障害児と家族の訪問調査、日本ベトナム友好障害児教育福祉セミナーに参加するためだった。まだ大学院生で、研究者生活はこれからという頃だった。

 ベトナム戦争が終結して20年近く経過していたが、米軍によって散布された枯葉剤の影響が心配されていた。実際、ホーチミン市にあるツーズー病院・平和村には、思春期を迎えた「ベトちゃんドクちゃん」だけでなく、枯葉剤の影響と思われる障害児がたくさんいた。もちろん、枯葉剤の影響ばかりではない。先天的な障害や栄養不良、疾病などにより障害をもった子ども、たくさんの障害児が学校に行くこともできず在宅の生活を余儀なくされていた。現在では障害児の就学率が少しずつ伸びてはいるが、枯葉剤の影響は、今も続いており、ツーズー病院・平和村には幼い子どもたちがたくさん生活している。

 ベトナムとの関わりは、障害のある子どもたちを抜きにしては語れないが、たくさんの素晴らしい人たちとの出会いや様々な異文化体験など、貴重な経験をしてきた。ベトナム初訪問の年に長男が産まれたこともあって、戦争と平和の課題をそれまで以上に考えるようになった。教職の仕事に就くようになって、若い学生たちと、ベトナム戦争や枯葉剤の影響、経済や文化、歴史を語るようになった。ベトナムとの出会いや交流は、私自身のつたない歩みでもある。そんなベトナムで見たこと、考えたことを紹介できればと思う。
 第二回 ベトさんとドクさんのこと
 ベトさんとドクさんというより「ベトちゃんドクちゃん」と呼ぶ方がなじみ深いかもしれない。二人は1981年2月ベトナム中部の農村で生まれ、翌年ホーチミン市ツーズー病院で生活を始めた。ご存じの方が多いと思うが、二人は身体が結合した状態で生まれた双子で、枯葉剤の被害者である。
 
 ベトナム戦争時、米軍は大量の枯葉剤をベトナム中部から南部にかけて散布した。1961年から1971年まで、8千万リットルという気の遠くなるような量の枯葉剤を輸送機やヘリコプターを使って、マングローブの森林や山地、平野、そして人びとの頭上に撒いたのだ。ベトナム枯葉剤被害者救援基金などによれば、被害者は300万人で、枯葉剤を直接浴びた人だけでなく、その子、孫といった第二世代、第三世代にまでわたっている。恐るべき化学兵器の被害はとどまることを知らないのか。

 1986年、兄ベトさんは脳症にかかり、弟ドクさんとの分離手術が検討された。1988年、ツーズー病院で分離手術が行われ、奇跡的に成功した。その後も二人はともにツーズー病院・平和村で生活してきた。ドクさんは2006年12月に結婚、2007年9月には平和村から新居へ移った。新しい人生を美しい奥さんと歩みはじめたのだ。

ベトさんは、脳症の発症以来、重い障害のため、ことばを話せず寝たきりだった。2007年5月に容体が悪化、集中治療室で治療を受けていた。8月には回復し、平和村へ戻っていた。これまでにも何度か重篤な状態に陥ったものの、ツーズー病院・平和村のスタッフの献身的な努力、日本をはじめ世界からの多くの支援に支えられて、回復していた。ただ、今回は回復することなく、わずか26歳という若さで亡くなられた(10月6日)。

 ベトさんの葬儀には、日本の関係者からたくさんの花輪が寄せられた。葬儀に参列することはできなかったが、関係者から配信された多くの写真のなかに、弟ドクさんと奥さんのうなだれた姿が深い悲しみを伝えている。ドクさんにはベトさんのぶんも幸せに生きて欲しいと願う。ベトさんとドクさんの歩みは、枯葉剤使用の責任追求と国際平和への取り組みを強めていくことを求めている。

 ベトさんとドクさんというより「ベトちゃんドクちゃん」と呼ぶ方がなじみ深いかもしれない。二人は1981年2月ベトナム中部の農村で生まれ、翌年ホーチミン市ツーズー病院で生活を始めた。ご存じの方が多いと思うが、二人は身体が結合した状態で生まれた双子で、枯葉剤の被害者である。

ベトナム戦争時、米軍は大量の枯葉剤をベトナム中部から南部にかけて散布した。1961年から1971年まで、8千万リットルという気の遠くなるような量の枯葉剤を輸送機やヘリコプターを使って、マングローブの森林や山地、平野、そして人びとの頭上に撒いたのだ。ベトナム枯葉剤被害者救援基金などによれば、被害者は300万人で、枯葉剤を直接浴びた人だけでなく、その子、孫といった第二世代、第三世代にまでわたっている。恐るべき化学兵器の被害はとどまることを知らないのか。

 1986年、兄ベトさんは脳症にかかり、弟ドクさんとの分離手術が検討された。1988年、ツーズー病院で分離手術が行われ、奇跡的に成功した。その後も二人はともにツーズー病院・平和村で生活してきた。ドクさんは2006年12月に結婚、2007年9月には平和村から新居へ移った。新しい人生を美しい奥さんと歩みはじめたのだ。

ベトさんは、脳症の発症以来、重い障害のため、ことばを話せず寝たきりだった。2007年5月に容体が悪化、集中治療室で治療を受けていた。8月には回復し、平和村へ戻っていた。これまでにも何度か重篤な状態に陥ったものの、ツーズー病院・平和村のスタッフの献身的な努力、日本をはじめ世界からの多くの支援に支えられて、回復していた。ただ、今回は回復することなく、わずか26歳という若さで亡くなられた(10月6日)。

ベトさんの葬儀には、日本の関係者からたくさんの花輪が寄せられた。葬儀に参列することはできなかったが、関係者から配信された多くの写真のなかに、弟ドクさんと奥さんのうなだれた姿が深い悲しみを伝えている。ドクさんにはベトさんのぶんも幸せに生きて欲しいと願う。ベトさんとドクさんの歩みは、枯葉剤使用の責任追求と国際平和への取り組みを強めていくことを求めている。
    
ベトさんの葬儀の様子(写真提供:レフォンツーリズム)
 第三回 フエの世界遺産と枯葉剤被害者支援
  ベトナム中部のフエは、1993年、ユネスコ世界遺産に登録された歴史的建造物群がある古都だ。ベトナム最後の王朝グエン朝(1802~1945年)の時代、その王宮は中国の紫禁城を模して建造されたという。フエ郊外、フオン川沿いには歴代皇帝の陵や寺院が点在し、歴史を感じさせてくれる。1858年、フランスは、ダナン砲撃によって植民地政策を開始し、グエン朝は植民地下に置かれた。歴代の皇帝には、フランスへの抵抗を見せる者もいたが、カイディン帝のような傀儡(かいらい)皇帝は、フランス風の贅沢を極めた帝廟を築いた。

 いにしえの佇まいを見せてくれるフエであるが、ベトナム戦争中、激戦地のひとつであった。王宮の大半は焼失し、現存する建物も大規模な改修工事がなされてきた。1954年、ジュネーブ協定によって北緯17度線で南北に分断された。フエはその北緯17度線の少し南に位置し、南ベトナム解放民族戦線への補給路・ホーチミンルートがある要衝地であった。米軍はそんな要衝地に大量の枯葉剤を散布した。枯葉剤は山林を枯らし、土壌と水源を汚染させ、住民は枯葉剤の被害者となった。第三世代にまでおよぶ被害者への支援が大きな課題だ。

  被害者支援活動に献身的に取り組む一人に、フエ医科大学の医師ニャン先生がいる。ニャン先生は、大学内に遺伝病障害児相談センター(OGCDC)を開設し、枯葉剤による子どもへの影響を研究し、子どもたちの治療と生活支援を行っている。日本をはじめ、ヨーロッパや米国のNGO、支援者から多くの寄付金を集め、就学援助や治療費用に充てている。

識字率の高いベトナムではあるが、障害のある子どもの就学率はまだまだ低く、障害児学校の開設や進路保障に向けた施策の実施が急がれている。枯葉剤被害者への支援活動は障害者施策の充実がなくてはならず、とりわけフエは多くの課題が集中的に表れている地域でもある。ニャン先生の取り組みは、OGCDCを中心に、地域の幼稚園、学校、職業訓練施設、作業所に至るまで、多くの機関との間にネットワークを築き、地域医療・地域福祉の拠点的役割を果たしている。被害を受けた障害のある子どもたちが成長する上で、ライフステージごとの支援がなくてはならないからだ。
 
枯葉剤被害者の職業訓練施設(フエ市)
 第四回 ホーチミン市戦争証跡博物館と元政治犯の語り部
 1975年4月に終結したベトナム戦争。その実相を伝えるのがホーチミン市にある戦争証跡博物館で、年間40万人が訪れている。実際に使用された戦闘機、戦車といった大型の兵器をはじめ、ボール爆弾、パイナップル爆弾という非人道的な兵器が展示されている。枯葉剤(化学兵器)の影響による奇形胎児のホルマリン漬けも展示され、戦争の残酷さを生々しく伝えている。また、報道写真家の中村梧郎さんや石川文洋さんの写真が展示され、見るものの心を引きつける。ほかにも「虎の檻」と呼ばれるコンダオ島(コンソン島)監獄が見事に復元されている。独立解放勢力が政治犯として収監され、拷問、非道の数々が繰り返されたという。

 昨年8月、日本ベトナム友好障害児教育福祉セミナーの一行は、戦争証跡博物館を訪ねた。コンダオ島に収監されていた元政治犯のグエン・クエさんに獄中での体験をお聞きするためだ。

クエさんは、1926年生まれの81歳。57年から、パリ和平協定締結の73年まで、実に15年間もコンダオ島監獄に収監され、度重なる拷問を受けた。その一つに、長い棒(写真)を利用して足と手を拘束する拷問がある。クエさんはその様子を見せながら、この拷問は12時間も続けられれば死ぬ人もいるほどのものだと語った。クエさんは、今でも手の指が曲がったままで、雨の日には全身がうずくという。

「15年間もの投獄にどうして耐えることができたのか」という一行からの質問に、「アメリカからの攻撃への怒りと祖国を何とかしたいという思いからだった」と答えた。しかし釈放後のクエさんは、衰弱しきっており、容姿は変わり果てていた。故郷の妻子に再会することを躊躇し、夫であることをすぐに明かせなかった。しばらくして再会できたが、奥さんはクエさんにまったく気がつかなかったという。なんという悲しい再会であることか。熱心に耳を傾けメモをとる学生たちの手が止まり、目に涙が溢れた。

 今ではコンダオ島は、国立公園に指定されており、リゾート地の一つだ。美しい海岸、豊かな自然に囲まれた島だという。自然の美しさからは、もはや監獄の残酷さを忍ぶことはできないかもしれない。コンダオ島をいつか訪れることができれば、平和の尊さとクエさんの祖国を思う気持ち、家族愛の美しさに思いを馳せてみたい。
 
元政治犯・民族解放戦線のクエさん
 第五回 ハノイ 200万人餓死の碑を訪ねて
 首都ハノイは、ハノイっ子によれば「政治と文化の中心地」だという。かつてサイゴンと呼ばれた南部ホーチミン市は、「商都」であり、中部フエはグエン朝の王宮があった「古都」である。それぞれに歴史があり、忘れてはならない記憶があろう。今回お伝えするのは、ハノイ市郊外にある「200万人餓死の碑」である。

 日本は、1940年に北部仏印、41年に南部仏印に進駐し、ベトナムを占領した。仏印とはフランス領インドシナ連邦という意味で、日本軍はフランスがナチスドイツに敗れたのを機に、仏印を日仏共同支配下においた。200万人餓死は、44年から45年にかけての天候不順による凶作が引き金だが、日仏による米の強制買い付けや、米からジュートなどへの転作の強要などが背景にある(早乙女勝元『ベトナム“200万人”餓死の記録』)。一般に飢饉は自然災害による不作が原因と説明されるが、この場合は占領が背景にあり、単なる天災ではない。

 2007年3月、200万人餓死の碑を訪ねるために、所在地を記したメモを頼りに研究仲間とタクシーに乗り込んだ。ハノイ市郊外まで順調に走ったが、大通りを抜けたあたりから運転手の様子がおかしい。それもそのはずでハノイは建設ラッシュで、道路が寸断されている。Uターンを連続した後、タクシーは停車したが、ここからは徒歩だという。運転手は碑の所在を近くの人たちに聞くが確かな答えがない。しばらく路地をうろうろした末に、ようやくたどり着いた。

 祈念碑の敷地は、住宅が取り囲み、狭い中庭のようだ。碑が建立された51年当時は畑の真ん中であったというのが信じられない。祈念碑横の小さな館には、慰霊の祭壇とともに、やせ細った子どもの姿や無数の遺骨など、当時の記録写真が展示されていた。

 管理人は私たちに「日本人か、学校の先生か」と笑顔で尋ねながら、一人一人に焼香させてくれた。「この真下に遺骨が埋められている」と管理人から告げられると、餓死の意味を改めて考えさせられた。

 200万人餓死については餓死者の数や要因を巡って諸説がある。ただ日本人にとって忘れてはならない歴史の一断面だろう。懸命になって連れてきてくれた運転手や笑顔で迎えてくれた管理人が、私たちが祈念碑にやって来た意味を認めてくれた点だけがせめてもの救いといえようか。
    

1951年に建立された200万人餓死の碑(ハノイ市)

黒田 学
1963年大阪市生まれ。日本ベトナム友好協会副理事、立命館大学教授(障害者福祉論)。著書に『ベトナムの障害者と発達保障』(文理閣)など。
(なお、本連載は『滋賀民報』に掲載されたものに加筆修正しています。)

 第八回 ハノイで学生とともに
 日本ベトナム友好障害児教育福祉セミナー(以下、セミナー)は、2002年から2006年まで、ホーチミン市を離れて、ハノイ師範大学障害児教育学部で開催された。
ハノイは首都であり、「政治と文化の中心地」と言われるのに対して、ホーチミン市はあくまでも地方の一都市にすぎない。ホーチミン市は、かつての南ベトナムの首都サイゴンであり、今でもベトナム最大の都市であるが、統一後の中心地はあくまでも「北」なのである。ハノイに開催地を移した背景には、障害児教育や福祉、特にその制度・政策について語るには、「首都ハノイに行くべき(来るべき)」というベトナム側からの強いすすめがあった。たしかにホーチミン市でのセミナーでは、国全体の政策や方針が見えにくかった。教育訓練省の関係者をハノイから招き、報告を受けるなかで、ハノイ開催の必要性をしだいに感じた。そこで当面5年間を目途にハノイで開催することになった。
ハノイ師範大学は1951年創立のベトナム最大の師範大学である。教員養成大学であるが、人文・社会・自然科学の22学部と大学院、学生総数1万7千人を擁する総合大学である。入試倍率は50倍というから、エリート養成大学でもある。
セミナーをハノイに移した年は、障害児教育学部の開設間もない頃だった。日本側の参加者も、かつては現職の学校教師が主流であったが、その頃から40数名の参加者のうち6割以上が学生という構成になっていた。セミナーは両国学生による交流が中心となり、2003年からは「学生セミナー」と名付けた両国学生による発表の場を位置づけた。
日本の学生は、滋賀大や立命大、種智院大、日本福祉大など、10校近い大学から参加していたが、共同発表のための混成グループをいくつか編成した。ベトナム側はハノイ師範大学だけで、発表者は卒業論文執筆の優秀者が選ばれ、日本側の自主的な参加と共同研究という感覚ではなかった。 
しかしそれでも両国学生による熱心な質疑応答も見られ、両国学生の熱心さが伝わった。発表会の「かたい」交流の後、その夜は歌やダンスによる楽しい交流となった。8月の蒸し暑い夜、大きな薪が焚かれたキャンプファイヤーで、汗だくになって盛り上がった経験も、学生たちの良い思い出になったに違いない。
 
日本の学生による発表(ハノイ師範大学、2006年)
 第七回 不就学障害児と家族の生活実態調査
  日本ベトナム友好障害児教育福祉セミナーは、1994年~1996年(毎年8月)にわたって、ホーチミン市近郊に住む不就学障害児の生活実態調査に取り組んだ。現在、ベトナムの障害児の就学率は10数%だが、当時はさらに低かった。その上、障害児の生活実態はベトナムの教育関係者にも十分に把握されていなかった。当時セミナー代表の藤本文朗先生(現・滋賀大名誉教授)は、養護学校義務制が実施される以前、福井県鯖江市で、不就学児童の実態調査を行った。それは就学に向けた大きな運動となって行政を動かせた。その経験を国や文化が異なるベトナムの地で再現するという試みでもあった。
 調査を通じて、不就学の要因がいくつか重なり合っていることがわかった。一つには、中・重度の障害や知的障害児に対応した学校が準備されていないこと。二つめは、家族の経済的貧困である。義務教育は原則的に無料であるが、何らかの授業料負担が必要であり、学校が遠方の場合は寄宿舎費用の負担も発生する。三つめは、公共交通網の不備である。市郊外には障害児学校がなく、市中心部への交通手段がないために通学が困難だからだ。これら三つの要因は、端的に言えば「公教育の未整備」によるものであった。
したがって調査から見えてきた実態はきわめて重く、就学への道は険しかった。そのためベトナムの関係者から「こんな調査をしてもどんな意味があるのか」という疑問や否定的な意見も出された。
 そのような意見を踏まえ、簡単ではあったが子どもの発達診断を行い、家庭での子どもへの関わり方を助言した。例えば、寝かせきりの子どもには、「座位をとって視線を高くする」「生活リズムをつける」「歩行の訓練をする」というものだ。他にも、生活資金援助など、就学に向けた具体的な手立てを考えあった。
 調査対象のうち就学が可能になったケースもあった。中でもS君(写真)は、初訪問時には自分ひとりで歩けず話しことばも少なかった。藤本先生は、抱っこをせがむS君を立たせ、嫌がる彼の手を引いてなんとか歩かせてみた。発育は確かに遅れていたが、歩けないのではなかった。翌年の再訪問時には、S君はことばも増え、仲間と連れだって遊ぶたくましい姿を見せてくれた。そして2年後、障害児学校で再会した時の感動は今でも忘れることができない。

 
初めて歩いたS君
 第六回 日本ベトナム友好障害児教育福祉セミナー
  日本ベトナム友好障害児教育福祉セミナー(以下、セミナー)は、「ベトちゃんドクちゃんの発達を願う会」を出発点にして、1992年以来、毎年8月に開催され、2009年で18回を数える。障害のある子どもたちの発達を願い、「対等・平等・友好の原則」に基づいて、学校教師、ソーシャルワーカー、研究者、学生らが研究や実践を報告しあい、交流してきた。16年間の歩みで、日本側の参加者数は延べ600名を超え、ベトナム側は優に二千数百名を超えている。

 戦争を長らく強いられてきたベトナムは、枯葉剤被害をはじめ、戦争を原因とする障害の発生率が高い。保健・医療の遅れ、低栄養などによる障害の発生も見られる。近年ではバイクや車による交通事故も障害発生の深刻な要因になっている。ベトナムは近隣諸国の中では高い識字率を誇っているが、障害児の就学率は10数%程度であり、就学率向上が大きな課題だ。

 セミナーが大切にしてきたことは、ベトナムの人々と「共に学ぶ」という姿勢だ。「先進国・日本」が、「途上国・ベトナム」に研究や実践を一方的に押しつけるのではない。まさに対等・平等・友好のもとで、ベトナムの障害児の実態と課題に学びながら、教育と福祉の未来をともに考えあうということだ。

 在宅障害児の生活実態調査や青年期障害者の進路調査にも取り組んだ。それは実態把握を通じて、日本とベトナムの関係者が問題意識を共有し問題解決の糸口を探るためだ。

 また、大学レベルの障害児教育教員養成コースにも関わってきた。障害児の就学率が低いのは、障害児が通える学校が少ないからである。しかしそれは同時に障害児教育を担える先生が少なく、専門性をもつ教員養成が遅れているためでもある。ベトナム各地の大学に教員養成課程があっても、障害児教育の養成課程を持つ大学は数校しかない。

 経済的な支援によって障害児学校を建設することも重要であろうが、セミナーは担い手の育成に力を入れてきた。日本各地で障害児教育や福祉に携わる関係者や研究者などが、それぞれの知識や経験を活かし協力してきた。日本とベトナムの学生たちによる交流を大切にしてきたのも、未来の教師やソーシャルワーカーに、草の根レベルから展望を切り開いてもらうためでもある。

 

第16回セミナー(ホーチミン市師範大学、2007年)

ベトナムを訪ねて

(改訂版)

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